正鵠を得る(慣用句ではない)

 「的を得る」「正鵠を得る」についてはここに集約改訂します。


 時系列について判るものは次の通りです。


 「礼記らいき」が紀元前一世紀に編纂され、その中の「射儀」に「不失正鵠」とある。

 礼記が日本にもたらされたのは遣隋使・遣唐使の時代か?

 「正鵠」が「物事の急所・要点」の意味に転じたのは江戸以前?

 「正鵠を得る」の用例が明治以降に見られる。

 「正鵠を射る」の用例が昭和以降に見られる。


 ぽっかり穴が空いたようにはっきりしない部分が有りますが、本論には大きくは関与しないのでご勘弁を願います。

 問題は「正鵠を得る」の用例にあります。その一例がこれです。


 「盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。」(1916年、森鴎外、寒山拾得)


 大辞林第三版には「正鵠を得る」の意味を「物事の急所・要点を正しくおさえる」とありますが、この用例ではそれとは意味が違っているように思えます。

 部分では判りにくいので上記の前の部分も合わせて引用したのが次です。


 「この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。」


 「正鵠」が「要点」どころではなく「真理」や「真髄」のような意味で使われているように思われないでしょうか。

 「正鵠を得ていても」は「真理を会得していても」または「道を極めていても」の意味だと思われます。

 そして、ここでの「得る」はごく普通の意味のごく普通の用法だと言うことになります。


 つまり「正鵠を得る」は慣用句ではない訳です。

 辞書で譬えるなら「正鵠を得る」は見出語ではなく、「正鵠」や「得る」の用例として記述されるべきものとなります。

 この点については「『的を得る』は『的』が『物事の要点』の意味で、『得る』が『上手く捉える』の意味だから正しい」とする論が逆説的?に証明になっているかも知れません。


 また、この時点では特に混乱は無かったのではないでしょうか。

 混乱したのはその後。「正鵠」と言う言葉が廃れたか何かの理由で「正鵠を得る」が一つの慣用句と見なされるようになってから。

 慣用句であれば全体の字面で意味が通じなければならないと言うことで「正鵠は得るものじゃなくて射るものだ」と言って「正鵠を射る」が使われるようになったと思われます。「『的を得る』誤用説」のような「『正鵠を得る』誤用説」が展開されたのかも知れません。

 そしてその後は「正鵠」が「的」に転じて混乱に拍車を掛けたと。


 ここで気になるのが「不失正鵠」及び、それを読み下した「正鵠を失わず」です。次の用例。


 「公衆の批判は、常に正鵠を失しやすいものである。」(1919年、芥川龍之介、後世)


 「失う」より「外す」の意味が強い「失する」を使っているところから「不失正鵠」が綿々と息づいていたとも取れますが、読み下しとは異なる言い回しになっているところから、無関係とも取れます。

 恐らくは無関係です。関係が有ったら「正鵠を失いやすい」と書かれたと思われ、「正鵠を失う」または「正鵠を失わず」こそ辞書の見出しになっているとも考えられるのです。

 そして、「『失う』の反意語だから『得る』になった」と言う語源にまつわる話も後付けの理由だと考えられます。


 少々とっちらかりましたが、まとめると、「正鵠を得る」は慣用句ではなく通常の言い回しに過ぎない、と言うことです。

 また、通常の言い回しであるなら、「正鵠を得る」と「正鵠」を「的」に置き換えた「的を得る」こそが正しくて、むしろ慣用句と錯覚している「正鵠を射る」「的を射る」が間違っていると考えられるのです。

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