いびつな日米関係、ゆがんだ三権分立…約70年前の「砂川事件」が出発点だった 15日に東京地裁で判決

2024年1月14日 06時00分
 東京都立川市の陸上自衛隊立川駐屯地の脇に、柵に囲まれた空き地がある。この目の前で、1957年、旧米軍立川基地の拡張計画に反対する市民が警官隊らと衝突した「砂川事件」が起きた。事件で有罪とされた人たちが、国に損害賠償を求めた訴訟の判決が15日、東京地裁で言い渡される。なぜ、長い月日を経て裁判をしているのか。背景をひもとくと、基地を巡る日米のいびつな関係が見えた。(太田理英子)

◆「砂川闘争は終わっていない」

 「昔はこの一帯は畑で、柵の向こうは『外国』だったんです」。近くに住む福島京子さん(74)が旧米軍飛行場跡の空き地を見つめ、振り返った。

旧米軍飛行場跡の前で砂川闘争と基地問題について話す福島京子さん=1月、東京都立川市で(坂本亜由理撮影)

 旧日本陸軍の施設が集中していた地域を戦後、米軍が基地にした。55年、基地拡張のため周辺の土地を大規模に収用する計画が浮上し、地元住民が反対運動を始めた。学生や労働者が支援し、警官隊らと衝突を繰り返した運動は地名から「砂川闘争」と呼ばれた。57年、柵が倒れ、基地内に立ち入ったとして学生ら23人が逮捕、7人が起訴される「砂川事件」が起きた。
 農家だった福島さんの父の故・宮岡政雄さんは「先祖の土地を戦争の道具にするのは許せない」と、住民組織の主要メンバーとして闘った。幼かった福島さんも座り込みや集会に参加。頭上間近を飛ぶ米軍機を見ては「戦争とつながっている」と感じた。立っていられないほどの爆風、爆音、燃料のにおいは今も忘れられない。

◆「闘争」で基地の拡張を防いだ そして現代は

 土地買収に応じる住民が次第に増え、約130世帯だった抗議者は、60年代半ばには23世帯に減った。それでも宮岡さんらは基地内の民有地返還などを巡る複数の訴訟活動を続け、68年に拡張計画は中止となった。「住民の力で1ミリの拡張も許さなかったことは大きな成果」と誇る。
 米軍基地を巡っては、今も各地で騒音や事故の危険の問題がくすぶる。福生市周辺の横田基地では、有機フッ素化合物(PFAS=ピーファス)を含む泡消火剤の漏出問題も指摘される。
 福島さんは、砂川事件の現場近くの小さな施設「砂川平和ひろば」で、闘争の写真や資料を公開し、次世代に訴える活動を続けている。「日米安保条約や地位協定に縛られている現実は変わっていない。日本に米軍基地がある限り、国民の権利と自由は失われたまま。砂川闘争は終わっていない」
 歴史のかなたへと消え入りそうだった事件から67年になる。再びの闘争に火をつけたきっかけは、2000年代から相次いで発見された米国の公文書だった。

 砂川事件を巡る国賠訴訟 1957年に米軍立川基地(当時)の拡張計画に反対するデモ中、基地に立ち入ったとして日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪で起訴され、有罪が確定した元被告の土屋源太郎さんら3人が、国に約20万円の損害賠償を求めた訴訟。一審の無罪判決を破棄した最高裁の審理は「田中耕太郎長官が駐日米大使らに情報を漏えいした上で審理を誘導したため、公平な裁判を受ける権利が侵害された」としている。田中長官と大使らの接触を示す米側公文書の存在が2008年以降に明らかになり、19年に提訴した。
 国側は、米側公文書について知らないとし、真正な文書だとしても「長官の発言が正確に聴取されたのか明らかでない」などとして、不法行為はなかったと反論。不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」を既に経過していると主張している。
 原告側は、公文書は長年機密指定され、内容を把握することが遅れたという事情などを踏まえ、除斥期間は適用すべきではないと訴えている。


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