10月7日は、デンマークの物理学者ニールス・ボーア(Niels H. D. Bohr:1885〜1962)の誕生日です。
ボーアは、量子論の育ての親として、初期の量子論の展開を牽引し、量子力学の確立に多大な貢献をした人物です。水素原子の構造を研究し、ボーアの原子構造論を発表するなどの功績を残しました。1922年には、「原子構造と原子からの放射に関する研究についての貢献」によりノーベル物理学賞を受賞しています。
コペンハーゲン大学の教授に就任した彼の働きかけで同大学に「理論物理学研究所」が設置され、1920年に所長に就任しています。ボーアを中心とした研究者のグループは、大学や研究所の所在地から「コペンハーゲン学派」と呼ばれました。
ボーアが発表した相補性原理に基づく量子力学の解釈は、「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるようになります。この解釈が多くの物理学者、とくにアインシュタインとの論争を生み出したことは有名です。
今回は、ボーアの初期の功績である「ボーアの原子模型」とも呼ばれる水素原子モデルとはどういうものだったのか、見てみましょう。この模型は、水素原子に関する実験結果を見事に説明し、量子力学の先駆けとなりました。最新刊『重力のからくり』も加わって、ますます好評の「からくりシリーズ」の著者・山田克哉さんの解説でお届けします。
*本記事は、『量子力学のからくり』の内容から、再編集・再構成してお送りします。
原子の中はどうなっているのか
1903年、日本の長岡半太郎博士(1865―1950)は、原子の中心にはプラスに帯電した原子核があり、その周りを幾つかの電子が回っていて、そのようすはちょうど土星の輪のようになっているという、いわゆる原子の「長岡モデル」を発表しました。
その8年後には、イギリスのアーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford:1871〜1937)が、原子の中心に原子核があるということを実験的に確かめています。
電子が原子核の周りを回っていられるのは、電子の持つマイナス電荷と原子核の持つプラスの電荷との間に電気引力が働いているためです。ところで当時、電荷を持つ粒子の速度が変化すると(減速あるいは加速されると)電磁波が発せられることはすでに知られていました。
放送局のアンテナ内では多数の電子が往復運動を繰り返しています。往復するためには電子の速度がしょっちゅう変化し、加速と減速を繰り返さねばなりません。アンテナ内では電荷(電子)が加速と減速を繰り返しているので、電子たちは電磁波を空間に発するのです。
速度というのはベクトル量で運動の方向も含まれています。したがって粒子のスピードそのものが変化しなくても、運動方向が変化すると(つまり方向が曲がると)粒子の速度は変化することになります。原子核の周りを回っている電子の運動方向は絶えず曲げられていることになるので、電子の速度は絶えず変化することになります。すると電子は原子核の周りを回りながら絶えず電磁波を放出することになるのです。
ところが電磁波はエネルギーを持っているので、原子核の周りを軌道運動している電子は電磁波を放出することによって絶えずエネルギーを失うことになります。つまり、電子は絶えずエネルギーを失いながら原子核の周りを回っていることになります。