ある老人の苦悩
エデン条約の調印式の日も近づいてきたある日のこと。
トリニティ自治区の一角にある公園に、似つかわしくない物体が鎮座していた。
上半分が赤、下半分が黒の四角い大きな車体の消防車……それも空港で使われる化学消防車だ。
だが辺りには穏やかな風が時折木の葉を運び、暖かな日差しが降り注ぐばかりで火災の気配など微塵もない。
(さて、奇妙な光景ですね……)
それを前にシスターフッドの長である歌住サクラコは小首を傾げた。
周囲に人がいないことを軽く確認し、消防車に小さく声をかける。
「申し訳ありませんが、センチネル……そろそろ集会の『時間』です」
だがもちろん消防車が返事を返すはずが……。
「……ああ、そうだった」
あった。
聞こえてきたのは、しわがれた老人の声だ。
深く穏やかだが、長年の経験と苦悩が滲み出て隠し切れない、そんな声だった。
「呼びに来てくれたか。すまんな、手間をかける」
「いえ。そんなことは。お休み中でしたか?」
サクラコは微笑んだ。
「いや……観察しておったのだ。キヴォトスに生きる君たち種族の営みをな」
「『ここ』でですか?」
「この、ありふれた公園でな」
少しだけ、声に含まれる辛さが薄くなったようにサクラコは感じた。
「幼い子供たちが儂の身体に昇り、消防士ゴッコに興じていた。大人たちは……獣もロボも……それを微笑んで見守っていた。もちろん、君と同年代の生徒たちもだ。そこにこの地で毎日のように起こる銃声や爆発音はなかった」
センチネル・プライム。
今現在渦中の人であるオプティマスより前に、オートボットを率いていた先代プライム。
「このことから思うに、キヴォトスが平和になるためにはもっと多くの遊び場が必要なのではないだろうか?」
「ええ。……そうですね。きっと」
何時の頃からトリニティにいてシスターフッドに協力していた彼に、サクラコは多くのことを教わった。
歴史や文化について、集団の長としての立ち振る舞いや心構え、人の上に立つ責任の重さ……サクラコにとって、センチネルは信頼のおける師のような存在と言える。
彼がいてくれて本当に良かった。エデン条約の調印式が間近に迫り、ディセプティコンや他の胡乱な者たちに動きが見られる今は特に。
「さて、ヒナタやマリーをいつまでも待たせておくのも罪悪と言うもの。そろそろ行くとしよう」
「はい」
サクラコが慣れた様子で乗り込み、運転席でシートベルトを締めると消防車はゆっくりと動きだした。
窓の外を見れば、抜けるような青い空の彼方に黒雲が立ち込めている。
「一雨きそうだな。……話しただろうか。雨の音は故郷(サイバトロン星)もここ(キヴォトス)も変わらぬ。憂鬱な気分にさせられるが……何故か心安らぐ」
センチネルは時折、故郷サイバトロン星の話を漏らすことがある。そんな時、彼の声に過る郷愁と悲哀は、サクラコの胸を打った。
(どうか、彼が僅かでも救われますように)
そう祈らずにはいられないほどに。
「……すまない、サクラコ。儂を許せ……」
センチネルが漏らした小さな、しかしこれまでよりも深い苦悩に満ちた呟きは、サクラコの耳に届かなかった……。