enjoy your trip!
(ここ、行きたい)
温泉は好きだ。地元の温泉地もいいし、遠出して旅先の雰囲気を味わいながら楽しむのもいい。
ただ、ペット同伴となると途端に条件が厳しくなる。なので、行く際は黒雲はお留守番してもらっている。
(ペット可で、駅からも近い。うちからもそう遠く場所)
(でも1人と1匹だけで行けるか?)
旅行に行くなら父を説得しなくてはいけない。三条から誘われた時は『行って来い』とだけ言われるので問題はないが、今回は自分から言い出すのだ。
(黒雲はケージに入れないと駄目だし、必要なものはこちらで持ち込むことになっている)
いつもの身軽な旅行とは違う。ちゃんと説明した上で納得してもらわないといけない。
HPの申込画面を開いたまま、PCの前で考える。
(交通手段はこれで…宿泊プランはこれで…)
プレゼン資料を片手にいざ出陣。
夕食の後、リビングのソファに座る父に話しかける。
「父上…その…」
「ん」
「…旅行に、行きたくて、熱海…なんですが」
「1人か?」
「ペット可のプランなので、黒雲も一緒…です」
ちらりとこちらを見る。手を差し出された。
「見せなさい」
旅行の計画書を渡せばじっくりと目を通された。
「露天風呂付きで部屋食。ペットはルールを守れば館内移動可、か」
「……」
「足はどうするつもりだ?電車だと一旦東京のほうに出るから、遠回りになるだろう?ケージを持って移動するのも負担になる」
「…タクシーとか…」
「……北条に連絡しておくから、向こうで何かあったら頼りなさい。うちからは車で行けばいい」
「父上…」
「…行くなら気候のいい時にしなさい」
「(こくこく)」
いい気分のまま自分の部屋に戻る。開いたままのPCから申込を済ませて予約出来たことを確認する。
「ニ゛ャー」
「黒雲、旅行に行くぞ。熱海だ。俺とおまえだけで1泊2日だ」
「ゴロゴロ」
「嬉しいか?嬉しいよな。いつも黒雲はお留守番だから、今回は特別だ」
「(スリスリ)」
「どこを見に行く?お土産はどうしようか?」
なんだか小さい頃に戻ったみたいだ。ずっとわくわくしている。
「いってきます」
天気予報は晴れマーク。体調も万全。荷物も準備は完璧だ。
「いってらっしゃい。お土産楽しみにしてるわね」
父は仕事中で、弟たちは学校だ。見送りは母だけだが寂しくはない。
「黒雲も楽しんでくるのよ」
「ミ゛ャウ」
ケージの中でリラックスしている黒雲。この後は車に乗って高速での移動だ。
「それじゃあ、晴をよろしくね。向こうで何かあった時は、北条さんにお願いしてあるのよね」
「はい、奥方。事前の連絡も取ってありますので、ご安心ください」
「勘助、予約の時間に遅れたら困るから、早く行こう」
「慌てなくても大丈夫ですよ」
高速の途中でトイレ休憩をはさみつつ向かう。3時間ほどかけて、ホテルの最寄り駅に付いた。
「本当にここでよろしいのですか?」
「歩いて5分もかからないんだぞ。それに、少しくらい周りの景色を楽しみたい」
「そうですか。では明日、またお迎えに参ります」
「勘助も気を付けて戻れよ」
「はい」
去っていく車を見送って歩き出す。
「黒雲ごめんな。もう少しだから、部屋までは我慢しててくれ」
「クルル」
「予約していた武田です」
「お待ちしておりました。ようこそ当ホテルへ」
受付でチェックインを済ませて部屋に向かう。
「黒雲お待たせ。狭かったよな」
部屋の中ではケージから出しても構わないとのことだったので黒雲を外に出す。
「ナ゛ーン」
膝の上に乗って来たのでしばらく撫でてやる。移動中はずっとじっとしていたせいか甘えただ。
「夕食は海の幸がメインだそうだ。部屋の露天風呂も1回入るだけじゃもったいないし、大浴場も気になる」
「近くに港があるからお土産はそこで買おうか?干物が有名なんだって」
「少し歩いたら神社や寺もあるみたいだし、足を延ばすのもいいな」
「(ピルル)」
「静かだなぁ…うちだといつも、誰かしらの声がするから不思議な感じだ」
ゆったりとした時間だけが流れていく。
あの後しばらく部屋で休んでから、夕食前に大浴場に行って広いお風呂を楽しんだ。
「ふう、温まった。そろそろ食事の時間だな」
部屋で黒雲の分の食事を用意していたら、自分の分も運ばれてきたのでそのまま一緒に食べることにした。
「どれも美味しそうだ…あっ、こら。黒雲は自分の分があるだろう」
「ブー」
「人間用のだから、駄目」
「(グリグリ)」
「(うっ…可愛い。でも…)お、お土産にいいおやつ買うから」
「(ジー)」
「(信廉、俺は今、お前の気持ちがよく分かる)…ここは家じゃないから、ごめんな」
なんとか諦めてもらった。いいおやつはちゃんと買います。はい。
食事も終わって、夜も更けてきたので部屋の露天風呂に入ってから寝る準備をする。
「おやすみ黒雲。明日もよろしくな」
ケージの中でふらりとしっぽが揺れた。
翌朝目が覚めた時、一瞬自分の部屋ではないことに驚いたが、旅行に来ていたことを思い出す。
「もう1回露天風呂入ろう」
黒雲はまだ寝ていた。
朝食を食べて、忘れ物がないかを確認する。チェックアウトして、どこに行こうかと思っていたら勘助から連絡が来た。
『おはようございます。今日はお土産を買われますよね?荷物は持ちますので駅でお待ちください』
「(見抜かれてる…)まだ早い時間じゃないか?」
『後15分で着きます。チェックアウトはお済みですか?』
「もう済んだ…今どこから電話してるんだ?」
『高速は降りたので、コンビニで買い物ついでです。とにかく、大荷物を持っての移動は大変ですから駅から動かないでくださいね』
「……分かった」
渋々駅に向かう。ケージの中から、黒雲が慰めてくれた。
「おはよう…(むすっ)」
「おはようございます。『こうなるだろうから朝早くからになって悪いけれど、行ってほしい』と昨日戻った後に奥方から頼まれたので諦めてください」
てきぱきと車に荷物が積み込まれていく。シートベルトを締めたら、出発だ。
「港のほうに行ってくれ」
「海産物が買える店ですね」
「ミ゛ャー」
「ペット用のおやつ売ってる所とかあるか?黒雲にも買いたい」
「駅からは少し離れますが、ありますよ」
ちゃんと調べておいてくれたらしい。なんだかんだいっても、やっぱり頼りになる。
「いっぱい買えた」
「よかったですね。荷物を載せたら戻りましょう」
あの後、勘助は買い物だけでなく、観光にも連れて行ってくれた。
「んと…付き合ってくれてありがとう」
「いえ、多少は役得だと思っておりますので」
「うん……確かに、勘助が1番うるさく言わないかも」
「信用していただいて何よりです」
板垣とか金丸とか馬場だったらもっと口を出されたと思う。
「帰るか」
「はい。帰りましょう」
ちょっとした冒険はこれで終わり。日常に戻る時間だ。
「ただいま戻りました」
「「姉上おかえりなさい」」
「これはお土産な」
袋ごと渡せば、中身を見てはしゃいでいる。可愛い。
リビングには両親がいて、『おかえり』と言われた。
「どう?楽しかった?写真とかは撮ったの?」
「あまり数はないですが…このあたりからですね」
そのまま母にスマホを渡す。
「何事もなかったようだな」
「はい。ホテルの方にも親切にしていただきました」
「それでいい。何も起きないのが1番だ」
少しだけ、頭を撫でられた。
「……荷物を片付けてきます」
なんだか恥ずかしくなってしまって、逃げるように自分の部屋に戻った。
「ニ゛ャッ」
「あっ、そうだ。おやつ」
鞄から買ったものを取り出す。ペット用の鰹節と、鮪節だ。
「ちょっとずつだからな」
そう言って差し出せば、美味しそうに食べた。
「黒雲、楽しかったか?移動中とかはずっとケージだったし、窮屈だったよな」
「モグモグ」
「俺は、凄く、楽しかった。また、機会があれば行こうな」
「ンナ゛ー」