志賀海神社大祭・山誉め祭~神功皇后紀 番外

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君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで
あれはや あれこそは わが君の御舟なり うつろうがせ みがいに命 千歳という
花こそ咲いたる 沖のおんづの 潮早にはえたらぬ つるおにくわざらぬ 潮は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば いくよへぬらむ 香椎路に向いたる あの吹き上げの浜 千代に八千代まで
今宵 夜半につき給う 御船こそ たが御船なりけるよ あれはやあれこそは 阿曇の君のめし給う 御船なりけるよ
いるかよいるか 潮早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな

— 山誉め祭、神楽歌

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博多湾に浮かぶ阿曇の島「志賀島」(しかのしま)へ向かいます。

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目的地は「志賀海神社」(しかうみじんじゃ)。
当社で年2回行われる「山誉め祭」に参列してきました。

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志賀海神社は謎深き「安曇族」の聖地です。
安曇族は、宗像族・住吉族と並ぶ三大海人族であり、志賀島から壱岐・対馬までを支配し、朝鮮と交流を持っていたと思われます。

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神功皇后の御代に隆盛を極めた彼らですが、なぜかその後海を捨て、内陸の信州「上高地」へと拠点を移します。

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その海人安曇族が山の神を誉め称える祭りが「山誉め祭り」です。
4月15日と11月15日の年2回行われており、春を「山誉種蒔漁猟祭」(やまほめたねまきかりすなどりのまつり)、秋を「山誉漁猟祭」と称し、春の祭りでは種蒔の所作が入る点が違っています。

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これは神功皇后が三韓出兵の折、対馬豊浦にて滞在している時、志賀の海士が海山の幸で饗応したという伝説にちなむ行事と言い伝えられます。

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この祭りが興味深いのは、祭りの中で、君が代の歌詞がうたわれるということです。
そう、我々の知る「国歌」がそのままうたわれているのです。

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朝9時、本殿にて、祭事が始まりました。

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志賀海神社の祭神は、表津綿津見神・仲津綿津見神・底津綿津見神の「綿津見三神」(わたつみさんしん)です。

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神職、氏子らが本殿に入ります。

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人が揃うと、ひときわ威厳に満ちる社殿、

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その前に植えられた、「事無し柴」が清められます。

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社殿内も祓い清められると、

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厳かに、本殿の扉が開かれました。

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開かれた扉の先には、御神鏡があります。

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神饌が献上されると、

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巫女による神楽が奉納されました。

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本殿での神事が終わると、摂社の「今宮神社」でも同様に祭事が繰り返されます。

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今宮神社の祭神は、「宇都日金析命」「住吉三神」「阿曇磯良丸」他、阿曇諸神になります。

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場所は本殿前の広場に移り、いよいよ「山誉め祭」が始まります。

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ウグイス嬢を務めてある女性は、たしか阿曇氏の血を受け継いでいらっしゃる方です。

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神職が再度、祭神にご挨拶します。

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社人の一人がおもむろに、事無き柴の一枝を採り、

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力強く、円を描くように枝を振り払います。

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社家の方が3人、それぞれ志賀三山を三度ずつ払います。

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志賀三山とは本殿うしろの「勝山」と北側の「衣笠山」、西側の「御笠山」を指します。

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次に社家3人によって扇を三度ずつ合わせ打ち、三山を誉める言葉を述べます。

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「あゝらよい山 繁った山」

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「あらふれる 正木のかずら いろまさる このこまに 水をかい はみをあたえよ」

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それにしても、海の神を祀る神社で、なぜ山を誉め称えるのでしょうか。

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阿曇の聖地「対馬」を旅して理解しましたが、安曇族は海人族であると同時に、山民族でもあったのです。

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彼らは「山を育てると海が生きる」という知恵を、古来より守り伝えてきた一族でした。

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今度は社人が事無き柴の前で弓矢をとります。

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「山は深し 木の葉はしげる 山彦の声か 鹿の声か 聞分けたりとも 覚え申さず」

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「一の禰宜殿には 七日七夜の おん祭り ごしゅに食べ酔い ふせって候」 

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「五尺の鹿 七かしら 八かしら まぶしの前の通る鹿 何となさる」

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「その時は 志賀三社 志賀大明神の 御力を以て 一匹たりとも逃しはせぬ」
「エーイッ」「エーイッ」「エーイッ」

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ここで、社人二人が櫓を漕ぐ所作をします。

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「君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」
「あれはや あれこそは わが君の御舟なり うつろうがせ みがいに命 千歳という」
「花こそ咲いたる 沖のおんづの 潮早にはえたらぬ つるおにくわざらぬ 潮は沖のむれんだいほや」

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手前に座った三人の社人は、ヒレに模したワラを後ろ手で揺らし、鯛の豊漁の様子を演じます。

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「志賀の浜 長きを見れば いくよへぬらむ 香椎路に向いたる あの吹き上げの浜 千代に八千代まで」
「今宵 夜半につき給う 御船こそ たが御船なりけるよ あれはやあれこそは 阿曇の君のめし給う 御船なりけるよ」
「いるかよいるか 潮早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな」

「いくせで釣る」
「よせてぞ釣る」
「いくせで釣る」
「よせてぞ釣る」
「いくせで釣る」
「よせてぞ釣る」

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こうして山誉め祭は終わりました。

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境内では「鰆ごはん」が販売してありましたので、賞味しました。

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国歌は明治の世になり、外交儀礼や軍楽隊の演奏用に急遽必要とされ、古今和歌集と和漢朗詠集などから引用して作成されたとされています。
しかしそれらより古い時代から、そのフレーズが志賀海神社に伝わる祭りとして詠われていました。
志賀島といえば、「漢委奴國王」の金印が発見されたことでも有名です。

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山ほめ神事の起源は明らかではありませんが、そのむかし神功皇后が三韓出兵した時、皇后の御前にて志賀の海人たちがこの古くより伝わる山ほめ神事をお見せしたところ、

「志賀の浜に打ち寄せる波が途絶えるまで伝えよ」

と皇后はこの神事を厚く庇護し、今に伝えられて来たのだと云うことです。

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蛇足ではありますが、ずっと気になっていた「金印ドック」を帰り道に食べることにしました。

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気になるメニューに目移りしますが、ここはやはり、金印ドック一択で。

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15分ほど待って焼きあがったのは

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イメージとは違って、でっかいイカとステーキの身が詰まった逸品でした。
めちゃうまです♪

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7件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    narisawa110

    壱岐でしたっけ?
    確か、宇佐氏は古い昔はこの近辺に土地を持っていて、尾張氏とかの土地の折衝で取引を間違えてしまい負債を負ったとかなんとか。
    この辺の話は宇佐氏の書いた本に出ていた気がします
    その関係で出雲に身を寄せていた時期があったかと。

    安曇一族の根こそぎ居なくなった感と、阿部族の動きは何か関係あるのかもしれませんね

    壬申の乱や守屋の乱のあたりで安曇族はどちらについたのでしょうか
    物部に近い立ち位置であれば煽りを喰らった可能性はあるかと思われます。

    たしか、出雲系の一部とと、物部のタケルの君は仲が良かったとかどこかで読んだ記憶があります

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    1. 五条 桐彦 より:

      富先生曰く、安曇は海部の分家だと言う話でしたが、物部の雰囲気も残している気がします。阿部と物部の争いは、大彦以降も長く続いていて、安曇はその煽りを受けているのかもしれませんね。

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  2. asesorlegal 999 より:

    いや〜!
    実に素晴らしいですね。
    是非とも詣でたいです。

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    1. CHIRICO より:

      そうですね、福岡は他にも隠れた名社がたくさんありますよ!
      時間があれば、いろいろご案内したいです!

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  3. 小学校の歴史の授業で習ってから、志賀島、一度行きたいな~と思っていた場所です。簡単に行けない場所かと思ってましたが、観光客の方もいらっしゃるのですね。
    最後のイカドック、島とミスマッチな感じですが、おいしそうです(^^)/

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    1. CHIRICO より:

      福岡県民から見れば、志賀島はちょっと遠めのお散歩コースみたいなものです(笑)
      でも、往古には本当に行きにくい島だったみたいで、神の島と呼ぶにふさわしいところだと思います。
      実は志賀島にも、宗像大社みたいな辺津宮・中津宮・沖津宮があり、今ではその気になれば、陸続きで全て回ることができます。

      詳しくはこちらの記事を、ググッと下まで見てみてください!

      https://omouhana.com/2017/07/23/志賀海神社〜神功皇后伝%E3%80%8021/

      イカはどうなんだって、今まで敬遠してましたが、ソースがよくできていて、めちゃうまかったです。
      パンはカリサクで具はジューシー!
      ちょっとお高めですが、また食べたいです。

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      1. そうなんですね。普通に行けない場所と思ってました(^^;
        でもこういう場所はあまり観光地化してほしくないな~なんて思いますが、経営の面から考えるとそういうわけにもいかないんでしょうね…って、分からないですけど…(^^ゞ

        記事、拝見しました。素晴らしいですね。
        CHIRICOさんの記事は知らないことばかりで、時に難しいですが(^^;、とても勉強になります(*^^)v 元々は国文学科だったので、日本書紀は興味があるんですよ~(^.^)

        イカドック、写真からもおいしさが伝わってきました。私も食べたくなりました(^^)/

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