氷犬嵐狼

氷犬嵐狼


雨中を走る。

あの女────アサシンだったか…に襲われた恐怖と震えを抱いたまま、負傷した足を引きずるように走り続ける。


「────待て……ガキ───」

「────………逃がさんぞ───」


痛みに悶え、けれど走り続ける。

雨で張り付いた髪を払う余裕すらなく、必死に追いかけてくる声から逃げ続ける。

理由は不明だが、立ち上がれなかった程に右足を苦しめていた激痛は和らいでいた。


否─────何故かは分かっている。


《……マスター?逃げるだけで良いの?僕ならアイツらを蹴散らす事くらいできるけど》

微かに聞こえた高い声に、心臓が跳ねた。

サーヴァント、ライダー。犬塚信乃。

死を前にして突然現れ、青年を…乾凪を救い、謎の珠を渡し忽然と消えた亡霊のようなモノ。

ソレは珠を持ってれば怪我が素早く治ると語り、自身はサーヴァント、凪はマスターであり、聖杯戦争とやらを共に戦い抜こうと告げた。


────子供の空想でももう少しマトモな話が出てくる。

きっとこれは夢か何かで、目が覚めたら全部元通りになるに違いない。

だから今はただ逃げなければ。走らなければ。

死にたくないから。

夢だとしても、痛みだけは、本物だから。



「っ……はあっ……はぁッ……」

どれだけ走り続けただろうか。 雨で濡れたコンクリートは靴越しでもひどく冷たく、時折混ざる砂利の痛みで夢でない事を強く実感する。


「……はっ…は、あっ────」

ふいに訪れた限界に足元が縺れる。体力の消耗によるものではない、足から走る為の力が失われていく感覚。

水を含んだ地面に叩きつけられ、体の前面に鈍い痛みが広がる。

《ああ、マスター!大丈夫かい?立て…》


「おにーさん、大丈夫?」


"ライダー"の声よりもリアルな声が頭上から聞こえる。

ジワリとこみ上げるモノに視界を滲ませながら顔を上げると、目の前には金髪の少年が立っていた。

「……な、に……?」

「─────ああ、手を差し伸べるよりも降りかかる火の粉を払うのが先かな」

そう言って少年は凪の横を通り抜け、追いかけてくる無頼漢達へと向き直った。

「だ…」

息切れのせいで、"めだ"が出てこない。

あっちへ行け。そう言いたいのに、今の矮小な自分にとって、彼の姿はあまりにも頼れるモノで……言葉を継げなかった。

「なんじゃあガキ…お前もソイツのツレか?」

「だとしたらどうするんだい?こんな雨の中でそんなに物騒なの持ちながら追いかけてくるのは、いくら何でも怪しすぎるよ」

不敵に笑う少年に相対する男達も笑みを返し……───直後、空気が殺気に染まった。

凪の肌で感じ取れる程濃密な殺意が充満し、雨音すら聞こえなくなる程の静寂が訪れる。

「────ハッ!ガキが一端の口をききやがる!」「まずはオメェからやってやんよぉ!」



止めなければいけないと思った。だって見ず知らず人が自分の為に傷つくのが、自分が傷つくよりも痛いって知っているから。

「おにーさんはそこで見てなよ。すぐに終わるからさ」

そんな心配など杞憂だと言わんばかりに少年は笑って、男達へと腕を突き出す。

その掌には、確かに。

"ᚦ"という記号が画かれていた。

《──────茨(ソーン)》

「────え?」

凪の視界を、膨大な光が埋め尽くした。

「がッ……」「……あ」「……!?」

男達は皆一様に悶え苦しみ、その場に膝をつく。その隙を逃すことなく少年は凪の腕を掴み立ち上がらせ、そのまま走り出した。


「この場から離れるよ、おにーさん!」

「ちょっ……待っ……!?」

恐怖と疲労で足に力が入らず縺れて転びそうになるのを、少年が支えてくれた。

「……その傷じゃあ走れないか……んもう仕方ないなぁ」

そう言って少年は凪に背を向けてかがむ。

"おぶされ"と言っているのだろうか?言葉はないが、彼の意図はなんとなく理解できた。「で、でも……」

「良いから!」

思わず尻込みする凪を、少年は強引に背負い走り出す。その背中は思っていたよりも小さく、けれどとても頼もしかった。


《……マスター、この人って……》

ふと、ライダーが何かを言いかけた時。

「────よし、ここらへんで良いかな」

少年の足が広い空き地の前で止まる。

「ここまで来ればもう大丈夫でしょ。傷は痛む?」

「い、いや……大丈夫だ……あ、ありがとう……」

呆然としながら凪が言うと、少年はホッとしたように笑い───そこで初めて気が付いた。

彼の背に掴まったままだった事に。慌てて降りて、頭を下げる。

「あ…ありがとう、見ず知らずの俺を助けてくれて、本当に…」

「いや、いや。そんなお礼なんて良いよ。困ってる人をほっとくなんて嫌だし」

少年はそう言って照れくさそうに笑った後、少し表情を暗くした。

「…?」

彼は後ろを向いて軽く肩を上げ下げし…見ようによっては深呼吸をして…そしてくるりと凪に向き直り、言った。

「さてと…おにーさん。一つ質問なんだけど、さ」

それはまるで世間話でもするかのような軽い口調で。

凪の目を真っ直ぐ見つめながら、少年は問う。

その問いはあまりにも単純で……それでいて、両者において最も大きな意味を持つモノだった。



「おにーさん、マスターなんでしょ?」


……ああ、やっぱりこれは夢なんだ。


だって、少年の掌が炎を纏いながら向かってくるなんて……そんな現実味のない話あるわけがない。

だから自分はずっと、悪い夢でも見ていたんだと思う事にした。

…ただ、これが夢なのだとしたら────少年の手から迸る熱は、何なのだろうか?



「─────マスター!」


熱は、消えて。

空気は雨粒よりもなお冷たく。

透き通る流水の刀身が、凪と少年を遮って。

されどその刃は少年の体を傷つけることなく、もう一つの剣に阻まれていた。

「おにーさんのサーヴァントも剣を使うんだね。でも……」

少年は嗤う。獲物を捕捉した獣のように。

「俺のセイバーには敵わないよ」


金属がぶつかり合う音。横へと吹き飛ぶライダー。

「"まだ"殺さなくていいからね、セイバー」

凪はライダーの刃を阻んだ者…セイバーへと目を向ける。

雨と夜陰に溶け込むような黒い鎧。西洋剣を手に、白い髭髪を蓄えた老人だった。

「────ああ、了解した」

老戦士は主に答え、その剣を振るう。

上段から降り下ろされた一閃をライダーは身軽に躱しつつ凪を抱きかかえ、セイバー主従から引き離す。

「ほう…今のを躱すのか、嬢ちゃん」

「おじさんこそ……捷さには自信があったんだけどなぁ」

ライダーは凪を背に、セイバーと対峙する。


牡丹の花のように朱い着物を纏い、黒色の髪を靡かせる少女と、黒鎧に白髭の老剣士。


方や、主を護るため。

方や、眼前の英霊を斬り伏せるため。

異なる型でありながらも、二騎のサーヴァントは鏡合わせのように構え合った。

雨と夜闇の静かな空間に、セイバーとライダーの一足一刀の間合いに、何かの気配が充ちていく。

…自分では、凪如きでは一歩踏み込む事すら許されない、冷たく凍えるような空気。


《マスター》 その中で、凪を護りながら戦うライダーが声をかけてきた。

《マスターは早く安全な場所に避難して。キミじゃ、セイバーのマスターにっ…!》

ライダーの念話は、身を裂くような風切り音によって途切れる。

「念話とは随分と余裕だな、ライダー?」

ライダーの肩が、紅く滲む。


両雄の距離は変わっていない。それはセイバーが"一足一刀の間合いの外"から攻撃したという事実を物語っていた。

「遅いな、ライダー」老剣士の冷たい声が、雨音を切り裂きながら響く。そして再び、一足一刀の間合いに充ちる静寂。



《──────先に謝っておくね、マスター》 数秒後、ライダーが静寂を破る。

《多分、セイバーはその気になればボクが動くよりも早くキミを殺せる》

…確信を含んだ声色。されど、それは絶望の声ではなく。

《だから──────》

ライダーが、柄へと手をかける。静かに引き抜いた刀身に、露が溢れ、満たされて。


「この一刀で、終わらせる」


瞬間、雨が、凍る。

雑草が霜柱に浸食される。

ライダーが持つ刀が、急激な温度変化によって生じた白い靄に包まれた。


抜刀、玉散──────

────霊気煥発。

細く薄い日本刀は、薄氷の刃を纏う大太刀へと変じていた。

透き通ったその刃は硝子のように透き通り、堅く、鋭く。


───絶技、

地を蹴り、一足一刀の間合いを侵す。

「ほう────」

感嘆の声を漏らすセイバーの瞳に、碧い影が走る。

破邪顕正・村雨────ッ!

薙がれ、舞い散る氷雪の花弁。

迸る氷裂と、凍てつく大気さえも斬り裂いた切っ先は、文字通りを空間も歪ませながらセイバーへと肉薄し……


…黄昏の暴嵐(バルンストック)


されど、その首を落とすには能わず。

上昇気流と言うにはあまりにも鋭い一陣の風が、白い花弁を舞い上げ、四者の視界を白く染めた。


白霧が晴れるのとほぼ同時に、ぼとり、と、牡丹の血が咲く。


「今の……捌くんだ………やっぱり…剣の本職は強いな………」

ライダーの腹から血が流れる。されど、その目に敗北は視えず。

セイバーもまた無傷ではない。彼の鎧には肩から腹に傷が走り血が滴る。

「……なるほどな」

老剣士は呟くように言い捨てながらライダーに剣を向けて…"本来なら凪がいた場所"を一瞥する。


「今のは儂を殺す一撃ではなく、マスターを逃す一撃か…強かよな、ライダー」

「えへへ、それはどうも」

胸中を秘めつつ笑う両雄。それに対し、セイバーのマスターである少年…ソルヴィ・アーリソンは焦慮を隠せない。

「しまっ…セイバー!ライダーを足止めしてて…ろ!」

駆け出すソルヴィを追うことなく、ライダーはセイバーと向き合い、なおも構える。

「さぁ、続きをしようよ、セイバー。次こそは、キミの首に届かせるから────」

セイバーは何も応えず。ただ、嵐の暴威を率いて斬りかかる。

迎え撃つは白氷の刃、雪崩れ舞う花弁と共に。

──────熱く冷たい剣戟が、夜闇に響く。

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