ゆきのかほり

ゆきのかほり


 ここはアニマルタウンのプリティホリック。ここねは、そこの看板娘のまゆで遊びに──まゆ“と”遊ぶために今日も訪れていた。


「ここぴさん……大変なシロモノができちゃいました……」

「まゆぴ、どうしたの?」


 問いかけたここねに、まゆは深刻な表情であるものを差し出した。

 それは小さな香水の瓶だった。


「世界に一つしかない、ユキの香りを再現した香水です」

「それってつまり、猫の匂い…?」

「再現度120パーセントです。毎日ユキを吸ってる私が言うんだから間違いありません」

「100パーセント超えって本物を超える猫臭さってこと!?」


 思わず大声でツッコミを入れてしまったら、店の片隅で昼寝をしていた白猫ユキ本人…いや本猫? が目を開けてジロリとここねを睨んできた。


「ユキは臭くありません!」


 と、まゆも声を挙げて否定した。


「ユキはお日様みたいなとてもいい香りがするんです! それに毛もふわふわで、あったかくて、その柔らかいお腹に顔を埋めたら幸せいっぱいになって、嫌なこととか全部忘れて、猫吸いしなくちゃ生きていけない体になっちゃうんです!」

「それなんて薬物? というかまゆぴ、また顔に傷が増えてない?」

「二、三回に一度は猫吸いの度に引っかかれますから」

「それってユキは猫吸いされたくないんじゃ?」


 ちなみに猫は基本的に孤独を好む生き物なので、猫吸い行為は猫にとって単なるウザ絡みと受け止められている可能性がある。

 つまり飼い主との相当の信頼関係が構築され、猫がものすっごくリラックスしてて、飼い主の奇行を


「もぉ〜この子ってばまたしつこく絡んでくるんだから……しょうがない、構ってあげる」


 と、半ば諦め半分呆れ半分で許してくれそうな時のみに短時間で済ませるべき行為である。

 猫の機嫌が悪い時や、そうでなくともしつこく猫吸いを続ければ顔面がズタボロになるまで爪を立てられてしまうが、ぶっちゃけそんなのは飼い主側に非があるのであって決して猫のせいではない。むしろお猫様自らのお手打ちを名誉と心得て感謝すべきである。

 てなことをまゆは熱烈に語った。


「ここぴさん、理解できましたか?」

「うん、猫吸いの危険性はよく理解できた」


 そこまでして猫を吸いたがる気持ちは理解できないけど。


「で、まゆぴ。なんでそんな香水作っちゃったの?」

「品田さんに頼まれました」

「拓海先輩が?」

「あの人もユキを猫吸いしたいけどまだ許してくれないから、せめて香りだけでもってお願いされちゃって」

「何やってんのあの人……ていうかまゆぴもよくそんなお願いをきいたね」

「私も気持ちはわかるから……最初は撫でるだけで満足だったのに、だんだん深く、たくさん嗅ぎたくなって、どんどん回数も増えちゃって、吸ってないと我慢できなくなってユキの幻覚とかも見えちゃって──」

「それはもう違法薬物だよ!?」

「猫吸いは合法です!」


 ただし猫が許してくれる限り、という条件付きである。ここ大事。


「私は品田さんにも同じ快楽を味わって欲しくて、それで夜も眠らず昼寝しながらこれを開発したんです」

「昼寝はしたんだ」

「ユキと一緒に♪」


 あ、そう。と、ここねはもはやツッコミを放棄しつつ、今度は別の疑問が湧いてきた。


「先輩はそもそもこれをどうやって使うつもりだったんだろう?」

「うーん、ぬいぐるみに付けてそれを吸うとか?」


 変態が過ぎる……拓海が人目につかないところで香水をかけたぬいぐるみに顔を埋めて恍惚としている光景を思い浮かべ、ここねは頭痛が痛くなった気がした。

 普段、人のことを珍生物だなんだと言ってるくせに自分だって大概じゃないか、変態、最低、猫廃人。

 ここねが呆れている前で、本家猫廃人まゆが香水を差し出した。


「ここぴさん、使ってみますか?」

「いや猫の匂いはちょっと」

「品田さんから猫吸いされるかもしれませんよ」

「………」


 いやそれはない、流石にない。常識的に考えて人に対して猫吸いなんかするわけがない。ここねはしょっちゅう、まゆを吸ってるけれど。

 それでもあのへそ曲がりで素直じゃない先輩がたかが猫の匂いがするだけで抱きついて顔を埋めてくるなんて、そんなうまい話が──


「お値段は?」

「これぐらい」


 電卓に並んだ数字と数分間睨めっこしたのち、ここねは香水を購入した。


〜〜〜


 買ってしまったものはしょうがない。ここねは高校の部室──忘れた読者もいると思うので改めて説明すると、ここねと拓海は二人きりのお料理同好会という設定である──に戻ると、その香水をつけてみることにした。


「あ、これパルファムだ…そんなに濃いの…?」


 香水は香りの強さ(香料の割合)に応じてパルファム、オードパルファム、オードトワレ、オーデコロンの四種類に分類される。

 今回まゆが作った「ゆきのかほり」はパルファム、つまり四分類の内でも香料の割合が最も多く、そのため香りが強い香水だった。

 猫の強い匂い、なんて言われたら不安要素しかない。ここねは半ば後悔しながら手首をウェットティッシュで入念に吹き、そこにほんのちょっとだけ香水をプッシュして吹きかけた。

 シュワ、と微かなミストと共にほんのりと香りが漂った。


「ぁ……」


 これはなんと表せばいいのだろう。言葉にはできないが、お日様に照らされながら草原に横たわっているかのような情景が脳裏を過ぎった。

 手首を顔に近づけてもう一度香りを嗅いでみる。

 温かい春の日差し。それが徐々に傾き、夕暮れの物寂しさを讃えながら沈んでいく。やがてそれは穏やかな夜の眠りにつくかのように消えていった……

 ……香水はトップノート、ミドルノート、ラストノートという風に、揮発していくごとに三種類に香りが変化する。それは本来なら2時間程かけて移ろいゆく変化であるが、この香水はそれが一瞬で訪れてしまうようだった。


「これが猫の香り。確かに猫吸いしたくなる気持ち、ちょっとわかるかも……でもパルファムなのに香りがこんなにも微かで、おまけに揮発がすごく早い。これじゃ普通の香水みたいには使えない…」


 とはいえ猫の匂いなんて普段使いするものでもない。そもそもこれは猫廃人向けの合法ドラッグのようなものだし。

 と思いながらここねは部室の壁にかかった時計を見上げた。

 もうそろそろ拓海が来る時間だ。


「うーん、今日はどんなネタにしようかな」


 拓海が来る前に今日のここ拓漫才の出だしを決めようと、ここねは自分のスマホでここ数日の記念日を検索する。


「あ、今日はこれにしようっと」


 ネタが決まった頃に、ちょうど拓海が部室にやってきた。


「芙羽、待たせたな」

「いえいえお気になさらず。ところで先輩、3月21日は催眠術の日です」

「今日はもう3月25日だけどな」

「まぁそういう細かい話は横に置いて、これから先輩に催眠術をかけたいと思います」

「いつも思うが話題の振り方が強引じゃないか? いつものことだから別にいいけど」

「じゃあそこの椅子に座ってください」

「はいはい」


 ここねの奇行にもすっかり慣れてしまった拓海は、彼女に指示に従い椅子に腰掛けた。

 その正面にここねが立って、人差し指を立てた手のひらを拓海の顔に向けた。


「いいですか先輩、私の指をよーく見ていてください」

「あぁ」


 ここねは拓海の目の前で指をクイクイッと左右に振り、それから自分の顔に引き戻して、己の目を指さした。

 それからもう一度、拓海の前に指を近づけて、そうやってお互いの目を何度も交互に指し示すように手を往復させる。


「あなたはだんだん眠くなる……あなたはだんだん眠くなる……」


 催眠術のテンプレート部分を繰り返し唱えた。しかし拓海は一向に眠くなる気配を見せず、苦笑いを浮かべていた。


「悪いな芙羽、昨日は早寝したから八時間ばっちり睡眠を取って頭スッキリなんだ」

「あなたはだんだん私を好きになーる、好きになーる」

「諦めろ。そんな付け焼き刃で雑な催眠術にかかってたまるか」

「むー!」


 頬を膨らませて不満顔のここねから、拓海は顔を晒して立ち上がった。


「さーて、んじゃ今日こそちゃんと部活やるか」


 そんな拓海の背中を見つめながら、ここねは、


(あ、そうだ。猫の香水)


 ピカリンコとイマジナリー電球を頭上に灯して、その思いつきを実行することにした。

 自分の手首にちょっと多めに香水を吹きかけてから、拓海に声をかける。


「先輩、もう一回、もう一回やりましょう!」

「何度やっても一緒だって」

「お願いします。先っちょだけでも!」

「女の子がそういうこと言うんじゃありません!?」


 慌てて向き直ってくれた拓海に、ここねはニッコリ笑顔で立てた人差し指を差し出した。

 この先輩、やっぱりチョロいなぁ。


「拓海先輩、あなたはだんだん眠くなーる、眠くなーる」

「だから効かない……って……ん?」


 ここねの白く細い手首から立ち上る不思議な香りに、拓海の目が微かに蕩けた。

 ここねはその蕩けた視線を、指で自分の目へと誘導する。


「あなたはだんだん、私を好きになーる、好きになーる……」

「す……にな……る?」


 二人の瞳と瞳の間を、ここねの手がゆっくり往復する。

 その度に、ふわり、ふわりと不思議な香りが立ち上った。


「……好きになる……私を……好きに……」

「す……い……なる……」

「すきに……なる……」

「すい……たくなる…」

「すいたくなる?」

「吸いたくなる」


 拓海の前にかざした手が、逞しい大きな手のひらで掴まれた。


「ぴぃ!?」


 熱い体温と力強い拓海の手。彼は掴んだここねの手に顔を近づけて、深く息を吸い込んだ。


「すー……はぁー……」

「す、吸いたいって……な、何が!?」


 ここねの頬が真っ赤に染まった。しかし拓海はそんなこと気にせずに、目を閉じて一心不乱に彼女の手を嗅いでいた。


「あ、あのっ」

「……」


 拓海の鼻が手のひらから手首へと移動し、くんくんと匂いを嗅いでくる。


「た、拓海先輩!? 先輩ぃぃ!?」


 顔が手首に近づき、ついに頬ずりされた。


「ぴぃん!?」


 その感触に、ここねは背中に電気が駆け抜けるような衝撃を受けた。


「ぴっ…ぴっ…!?」


 拓海が何をしようとしているのか全く理解できず、ここねは後ずさった。しかし拓海の手ががっちりと手首をホールドしており、これ以上離れることは叶わなかった。


「ぴ!? ぴゃあっ!? あぴぃん!?」


 背後にあった椅子に足がぶつかり、そのまま腰掛けてしまう。その隙に拓海はここねの懐に潜り込んでいた。

 そしてそのまま彼女の細い腰を両腕で抱き寄せて、ここねの胸へ顔を埋めた。


「ぴぃぃ!? ぴゃああああああ!?」


 拓海の熱い吐息が胸に吹きかかり、ここねは背筋をしならせる。拓海はここねを逃さないよう、しっかりとホールドしてその柔らかな胸に顔を押しつけて大きく息を吸った。


「すー……はー……」

「先輩っ! 先輩ぃぃぃ!?」

「すー……はー……」

「だだだめです! こんなとこで、こんな所で……まだ早いです、せめて夜に、いやそうじゃなくてえええ!!」

「すー……くー……」


 ここねの抵抗も虚しく、拓海は何度も何度も深呼吸を繰り返す。やがてその呼吸の間隔がどんどんと長くなっていき、やがて、


「くー……かー……くー……」

「……先輩?」

「くー……」

「え、先輩、寝ちゃった?」


 ここねをがっちりホールドしていた腕の力が緩んでいく。拓海は腕をだらんと垂らすと、そのまま彼女の太ももに顔を埋め、体重をあずけるようにして全身の力を抜いた。


「……いや私を枕にして寝ないでください!? 起きてください先輩!」

「むにゃ……ユキさん……」

「ここまでやっておいて他の女の名を呟くなんて先輩あなたは最低です!?」


 いっそこの顔を引っ掻いてやろうか、とも考えたけれど……


「くー……すー……ユキさぁん…💕」

「むー…」


 ちょっとだけ横を向いたその顔がなんとも幸せそうだったので、そのほっぺたを軽くツンツンするだけで許してあげることにした、ここぴだった。

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