2017年3月20日
※書きたい所だけ書いた駄文です。
※捏造妄想解釈等があります。
※自分で「この人はこんな言動するか?」と悩みながら書いた為に人物像がブレまくっています。
何でも許せる方だけお楽しみ下さい。
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ピピピと、無機質に朝を知らせる音で目を覚ます。寝惚け瞼を擦りながらスマートフォンを確認すれば、現在の時刻は午前の7時2分。起床時刻が予定よりも少し遅い。どうやら深く眠っていた様子だ。
(寒い……)
鉛の如く重い身体を起こすと、朝の冷えた空気に少し身震いする。
布団に籠っていたくないかと言えば嘘になるが、絶対に成すべきことがある。
まだ靄が掛かる脳に喝を入れる為に、のそりと洗面所へ向かった。
「そろそろ歯ブラシも変えなければな」
ぽつりと漏らした小さな独り言が、朝の空気に溶け込んでいく。一人暮らしも長くなれば、自然と増えてしまうものらしい。誰かに話を聞いてもらいたい訳でもないのに、こうも何か言葉にしたくなるのは人間の性だと言う。
(人間、か)
シャコシャコと歯を磨きながら、嘗ての情景を思い返す。
今の閑散とした生活とは真反対の、血生臭い駅とも呼べない廃墟で、凡ゆる所から血を流した少年が脳裏に過ぎった。
……瞳に空虚を映していた少年が。
(やめだ、こんな事を考えても弟達は喜ばない)
歯磨き粉を洗面所に吐き出して口内を濯ぎ、次に洗顔をする。
棚の中からタオルを取り出して顔面を拭けば、すっかり眠気が覚めた。
(今日は遠出をするから仏飯も多めに作っておこう)
昨晩の残飯をレンジで温めている間、仏壇に仏飯を供える。
天井へ立ち上る湯気越しに遺影を眺めるが、全く知らない老爺の写真だ。それでも無碍に扱うことは絶対にしない。
少年を男手一つで育てたと言っても過言ではなかったからだ。それでも、一抹の寂しさを覚えてしまう。
(弟達の写真を、一枚でも残せたら良かったんだが)
小さく息を吐いたその時、チンと軽快な音が響く。温め終わったのだ。
台所へ戻ると、レンジの蓋を開けて朝食を取り出す。
居間でテレビを付け、ニュース番組を何の気なしに眺めながら、全く味付けをしていない白米を咀嚼する。
現在は気象予報士が本日の天気と気温を伝えている。仙台ということもあり、元からあまり冷えない気候なのだが、今日は一日中晴れるらしい。
(雨は降らないのか、良かった。何としてでも行きたかったからな)
その後、数多の芸能人達が食品類を宣伝する放送広告に変わった。ニュース番組が終わってしまい、観る意味も無くなったのでテレビの電源を切り、食器を片付ける為に座布団から立ち上がった。
食器を食洗機の中に入れると、簡単に台所を掃除する。なるべく早く、且つ楽に済ませられるように。この十年で家事のコツは掴んだ。最初こそ手が覚束なかったが、歳月を過ぎれば嫌でも覚えた。
使い終わった布巾をドラム洗濯機に放り込むと、スイッチを押して回し始める。帰宅する頃には終わっているだろう。
寝巻きから着替える為に、衣類棚や箪笥から適当に衣服を選んで引っ張り出す。
気に入っている丸襟のゆったりとした白いニットセーターに、伸縮素材でできたグレーの長ズボンを併せて穿き、黒皮のベルトを敢えてキツく締める。
次に肩甲骨まで伸びた黒茶の髪の上半分を一つに束ねて括ると、すっかり着慣れたベージュのチェスターコートに袖を通し、長年愛用している濃色のネックウォーマーを身に付けた。
最後に鏡を見て、身嗜みを確認する。
(よし、特に変な所はないな)
鏡の前に立っているのは、至って何処にでもいそうな気怠げな雰囲気を纏う、顔立ちの整った青年。目元にまるで死斑の様な赤紫の隈がある事と、鼻の頭に走る一本の黒線から目を逸らせば。
青年の名は虎杖脹相。今から十三年前、望まずしてこの世に受肉した、呪霊との混血児である呪胎九相図の一番目だ。
「行ってきます」
予め玄関に置いていたリュックサックを引っ掴むと、誰か家の中にいるわけでもないのに挨拶を残し、昔ながらの引戸を開けて家を出て行く。
庭へ視線を向けると、イタドリが元気に群生する花壇の隅に、群上して育つ低木が植えられている。その低木が、珍しく花を咲かせていた。日があまり差さない建物の陰にいるというのに、随分と明るい色を宿している。風に乗せられて漂ってきた甘酸っぱい香りが、微かに鼻腔を擽った。
今日は昼夜が均等になる特別な日だ。
祝日と言うこともあり、世間は休日よりも更に賑わいを見せている。繁華街を通り過ぎる時、行き交う人混みの中には、家族連れも多く見かけた。
しかし、同時に彼岸と言うこともあり、墓参りに訪れる者が多く居た。脹相もその一人であり、束ねられた花と簡単な掃除用具を持って、歩道が石畳で敷き詰められた霊園の中に足を踏み入れていく。
「久しぶりだな、皆。暫く来てやれなくて済まなかった」
虎杖家之墓と書かれた墓石の前に屈むと、申し訳なさそうに微笑む。暫く墓参りに訪れた者はいないのだろう。枯葉がそこら中に散らばっており、雑草は伸び放題。花立に供えられていた仏花は疾うに枯れてしまっていた。
(仕方がない、殆どは高専で活動しているからな。任務は勿論、距離の問題もあるからまず来る方が難しい)
合掌すると、両手にゴム手袋を嵌めた。まずは枯れた仏花を抜き取り、新聞紙に包んでゴミ袋に捨てる。近くに落ちた枯葉も残さず回収する。
今度はシャベルを用いて、至る所に生えた雑草を根元から抜き取り、小さな土塊を払ってはゴミ袋に捨てる。偶に外へ落ちてしまっている小石を見つけると、元の砂利が敷き詰められた場所に戻した。
雑草を全て抜き終わると、次に手桶に汲んできた水を柄杓で掬い、御影石に打ち水をする。そして汚れが目立つ箇所に御影石専用の洗剤を吹き掛け、スポンジでゴシゴシと擦って拭いていく。
(こんなものか)
雑巾で洗剤を拭い取り、掃除用具を片付けた。ゴム手袋も水場で軽く洗水すると、タオルで拭いてケースの中に戻した。
また手桶に浄水を汲むと、墓石に打ち水をして水鉢と花立に浄水を注ぐ。
そして花立に仏花を差し、石台に半紙を敷き弟達の好物だった飲食を供える。
最後にライターで数本の線香の先端に着火すると、小さな香皿に立てた。
両手に黒の数珠を持ち、墓の前で静かに手を合わせる。その姿は宛ら薄幸体質の青年に見えるだろう。小鳥が春を告げる霊園の中、道行く参拝客の中に、時折脹相へ視線を向ける者が居た。
吹く風が頬を撫でていく。線香から立ち上る煙が春風へ乗せられ、花立に供えられた仏花がそよそよと揺れる。
腕白でお騒がせな問題児と、自由奔放な享楽家を、保護者が叱責を飛ばしながら追いかけて行くように。
(もし本当にそうなのだとしたら、祖父も宥めてくれれば良いのだが。頑固者としか聞かなかったからな……)
これだけで、どれ位の時間が過ぎ去っていくのだろうか。それでも、この時間が嫌いではなかった。
愛する弟達が側に居る気がして。知らぬ祖父も弟達を見守ってくれているのではないかと、淡くも期待させられる。
「あれから十年も経ったのか。最初は長いと思っていたんだがな、あっという間に目紛しく過ぎ去っていった。早いものだな」
ぽつりぽつりと、言葉を零す。まるで、誰かに語りかけるように。表情はどこか憂いを帯びているようで、その実は酷く優しい笑みだ。瞼を閉じると、あの日の光景が鮮明に映し出された。
意識が浮上する感覚を覚える。辺りを見回すと、視界いっぱいにずっと真紅に焼けた空が一面に広がっている。黄昏時と言った所だろうか。
『起きろ、脹相』
その声で初めて、己は地に横たわっていた事を知る。地に手をつくと、ピチャリと水の音が聞こえた。
身体を起こすと、此方を見下ろしている青年がいた。声こそ心配の色に聞こえたが、肝心の表情が窺えない。青年の背後には丁度夕日があり、逆光のせいで影に覆われているように見えるのだ。
『⬛︎⬛︎?』
『やっと起きたのかよ、寝坊助』
『寝坊助も何も、俺は死んだ筈だぞ。ここはオマエの生得領域だろう。何故俺はここにいるんだ』︎
『や、まだ生きてるよ? 単に死にかけなだけでさ。マジでしぶといよね』
身を挺して両面宿儺の懐に入り込み、仲間諸共相討ちになる覚悟で血刃を打ち込んだ所だった。だが同時に、宿儺の二本の腕が己の心臓と腹を貫き、そこで意識を手放してしまったのだ。
死した今となっては、悔いも無ければ未練も無い。最期に一人残った弟を助けられたのであれば、もうそれで良かった。
四番目から九番目の弟達は、決戦前に脹相が取り込んだ。脹相の呪力を少しでも底上げする為に。それ以上に、その器である弟を意地でも救出する為に。弟達に、力を貸してほしいと頼んだのだ。
その後、壊相と血塗と共に決戦の地へ乗り込んだ。だがしかし、宿儺と死闘を繰り広げる最中に、壊相は宿儺の腕で心臓を貫かれ、血塗は捌で一刀両断されてしまった。それでも二人は、命が燃え尽きるその一瞬まで、末弟を気にかけていた。
『ごめんね兄さん、先に逝ってしまう。後は任せたよ』
『絶対に助けてあげてほしいんだぞぉ』
魂が砕け散りそうだった。それでも託されたから、他の呪術師と共に戦い続けた。それも終わったのだと知れば、生きる意味は無い。今頃は弟達を待たせてしまっているだろう。早く行かなければ。
今も死の淵を彷徨っているのかは定かではないが、いつまでも末弟の生得領域に居座るわけにはいかない。末弟も不愉快に感じるだろう。
『そうか、ならば出て行くとし──』
そう思い、一言を置いて立ち去ろうとした時、腕を強く掴まれる。驚いて振り向けば、如何にも不満だと言わんばかり眉を顰めていた。
『ダメだろ脹相、オマエが死んだら』
『しかし、オマエは“人“として生きているのだろう? ならこれ以上は共に生きられないぞ。“呪い”でしかない俺は、オマエの人生の邪魔になる』
決定的な価値観の違い。弟達の苦しむ姿を見たくないがあまりに、楽な道を選んでしまった己は、少年と生きる権利はないと思っていたのだが。
『あー、それがさ。俺、もう処刑されたんだよね』
『……え?』
今、何と言った?
末弟が死んだ。
何故?
処刑されたから。
兄として助けてやれなかったのか?
命に代えても守るべき大事な弟を?
『心配しなくても、オマエはちゃんと俺を助けられたよ。だからこうして、宿儺とかに邪魔されず話せてんだからさ』
『だが、⬛︎⬛︎……』
しかし、生物にとって最期にして最大の異変を、脹相は感じ取れなかった。術式の影響により、弟達の異変はどんなに遠くにいようが感じ取れるのに。
それならばまだ、少年は生きているのだろうか。それでも刻一刻と、少年に危機が迫りつつあることは明白だった。
『⬛︎⬛︎、今ならまだ間に合う。引き返せ』
『無理。なんなら引き返すのはオマエの方よ?』
即答で拒否されてしまった。そんな飄々と軽い調子で言い退けられるものだから、凡ゆる負の感情が己の中で渦巻き、余計に遣る瀬無く感じる。
『何故、そんなことを……オマエは望んだのか?』
『うん。処されるべきだから一思いにやってくれって、伏黒に頼んだ』
『……伏黒が、やったのか』
『そ、やってくれた。正直、躊躇われてジワジワ殺られんのかなって思ってたけど、マジで一瞬で終わってさ。何だかんだ優しくて思い切りあるよなぁ、伏黒』
『やってくれたって、そんな納得しているような……』
『してるよ。寧ろこうなるべきだったし、ちゃんと死んで良かったとさえ思ってる。逆に伏黒達を説得するのに大変だったわ。だって「一緒に逃げよう」とか言ってくるんだぜ? 駄目に決まってんだろっての』
少年はそう言って呆れたように笑った。何故そうしたのか問い糺そうとしたが、一度その言葉を聞いてしまえば、もう何も言えなくなった。
何かしようにも全てが手遅れになってしまった今、弟にかけてやるべき言葉を模索しても全く見つからない。
世の中の不合理さに泣き喚きたくても、当人が納得してしまっているばかりに、口を出す権利なんざ無いのである。
『けどアイツ、大量殺人を犯した悪人を殺すって言うのに、スッゲェ辛そうな顔してたんよね。また起きたら気にかけてやってくれん?』
一方で少年は、どこまでも他人のことばかり気にかける。己のことなぞ、最初から居ないとばかりに勘定に入れていない。
『それで、本当に死ぬ前に一つ、オマエに頼みたいことがあるんだ。脹相だからこそ……俺の兄貴だからこそ、託したいものがあって』
『……⬛︎⬛︎』
『後ちょっとで死ぬんだから話聞いて? マジで時間ないんだってば』
その言葉は聞きたくない、なんて我儘を押し殺して続きを促す。服の裾を掴んで、まるで子供のように泣き噦る己が惨めに見える。それでも零れ落ちる涙は、止まることを知らない。知ってくれない。
『実は俺ね? 爺ちゃんが死ぬ前にこう言われたんよ』
───オマエは強いから人を助けろ。手の届く範囲でいい。救える奴は救っとけ。迷っても、感謝されなくても、とにかく助けてやれ。
『でも、結局できなかった。沢山人を殺してしまった。俺の手の届く範囲にいた人も、助けられないまま終わってしまった。正直、秘匿死刑すら贖罪にならないと思ってる。命を以てしても罪を償えない。寧ろ死ぬことでしか、人を助けられないのが……悔しくて……』
悲痛に顔を歪める弟をそっと優しく抱き締め、灰桜の頭を撫でる。
この三年間を共にしてきた少年は、既に脹相の背を越していた。ついこの間までは小さく見えたと言うのに、刻まれてきた時間が惨酷に物語っていた。
『だからさ、脹相。俺が果たすべき責任を押し付けるようで悪いけど、爺ちゃんの遺言を引き継いでくれる?』
頭を撫でる手がピタリと止まる。血の気がない己の手を見て、口を引き結んだ。何程の人間を手にかけて来たのか、覚えていないと言うのに。
『悠仁。俺は“人”か?』
『は? 何言ってんだよ。オマエは“人”だろ?』
予想外の返答に、目を見開いた。一切の躊躇もなく弟達を人間だと断言する彼に、嘗て己が下した決断が醜く見えていく。
『俺は違う。俺は“呪い”だ。オマエと同じ“人”にはなれない』
首を横に振る。いよいよ少年の目が見られなくなり、下に視線を落としてしまう。視界が不明瞭に滲みゆく。
『弟達が受肉した時、思ったんだ。異形の肉体を持つ弟達を、“人”は受け入れられないと。だから“呪い”として生きる道を選んだ。だから俺は殺した。二年前に大勢。例え、壊相と血塗が殺さずに終わったとしても』
吉野順平の式神により捕縛され、呪術高専の捕虜になったと聞いた時は、気が気でならなかった。
死こそ感知しなかったものの、高専でどんな風に扱われているのか分からず、色んな想像が頭の中を駆け巡った。
『だから、それは駄目なんだ。俺は何の信念もなく人を殺した。“人”として生きてきたオマエの意志を引き継げない』
死ぬことを断固として譲らない少年の前にできることは、強いて挙げるなら弟達の後を追うことだけだった。それでも少年は言い続ける。
『それなら俺もとっくに“呪い”になってるよ。守るべきだった大勢の人を殺したんだぞ。壊相と血塗も、この手で殺しちまったのに』
『違う、⬛︎⬛︎。あれは宿儺がやった。宿儺が仕出かした所業なんだ。断じてオマエのせいじゃない! オマエは何も悪くないんだ!』
『脹相』
声を上げる言い聞かせるも、逆に己を窘めるように言う弟の声。少年は此方を真っ直ぐに見据えていた。
東京が瞬く間に壊滅したあの惨状。末弟が宿儺に乗っ取られて暴走したと聞いた時から、上層部や一部の高専所属の呪術師から、末弟を殺せと声が上がっていた。脹相はそれが恐ろしくて堪らなかった。
勿論、他者が恐ろしいわけではない。彼自身ですら、己が死んで当然だと言わなばかりの目で脹相を見た。実際に誰よりも強く望み、友人の手で処されてしまった。
それが恐ろしかった。その目が脹相にはどうしようもなく恐ろしく、殺意よりも耐え難かった。
『それなら立場を交換しよう、脹相。俺は“呪い”として死ぬから、オマエはこれから“人”として生きるんだ』
『⬛︎⬛︎ッ、やめてくれ! それだけはやめてくれ! 幾ら何でもそれだけは受け入れられない!! それだけはッ……!』
確かに“呪い”として生きたが、完全な呪霊だと断言はできない。かと言って“人”でもない脹相が、百五十年という歳月の間、自己を高め保てたのは、“兄”であるという矜持が魂の根底にあったからである。
しかし、弟達が皆死んでしまった今、何を誇りに、何を糧に、何の為に生きれば良いのか分からない。最後の弟も死んでしまえば、いよいよ生きる意味も、この世に存在する意味すらも無くなってしまう。
『やめてくれ……それだけは……いやだ……』
死んでほしくない。少年を呪うどうにもならない反論が、ずっと喉の奥に痞えている。声にならない声になってしまう。開いていた口が閉じられると、少年は捕まえていた腕の手を優しく包む。
『これだけは持ってくわ。他はあげるよ。戸籍も俺の私物も、住んでた実家もお墓も、オマエが使える物は全部置いてってやるから』
呼び止められないことを好機と見てか、少年は心配が滲んだ、それでも慈愛に溢れた笑顔で指折り数える。
『だから、掃除は定期的にしてな? ゴミ出しの際は分別するんよ? 洗濯物も溜め込むなよ。飯も栄養がある物を毎日欠かさず食ってな。後は睡眠不足に陥らんようにね。運動は……脹相なら大丈夫かな。けど、“人”として生きる以上、今言ったことは欠かしちゃ駄目だからな』
脹相は悲しみのあまり、声にならない嗚咽を漏らすだけだった。延々と啜り泣く彼に、困ったような笑みで頭を撫でた。
『あの日、俺に勝てたオマエなら大丈夫よ。頭良くて、しぶとくて、ずっと俺にも優しくしてくれたオマエなら、きっと大丈夫だって信じてる。だから最期に……俺と約束してくれん?』
少年は右手の拳を差し出す。脹相も壊れ物を扱うように、そっと己の掌を差し出すと、少年は拳を開いてこう述べた。
『生きろ、今度は“人”として。オマエは強いから“人”を助けろ。救える範囲で良い、救える奴は救うんだ。そしたら……もう弟達はこの世にいなかったとしても、独りぼっちにならずに済むからな』
手の中には、フリルのように柔らかな赤い蝶の花。次に気が付いた時には、少年は沈み行く日へ歩き出していた。
『⬛︎⬛︎、待て!! 戻れ!!』
そんな想いで慌てて後を追い掛けるが、一面の水面が荒波立ち、まるで来るなと言わんばかりに脹相の行手を阻む。
轟々と焼け焦がされそうな日差しの中、少年は思い出したと言わんばかりにこちらに振り返った。
『あ、そうだ。言い忘れてたわ』
あれだけ鮮血と見紛う程に赤々としていた空が、漆黒に染まりつつある。直に夜の帳が下りようとしているのだ。
そのせいで、ただでさえ夕日由来の逆光の効果で陰になり、あまり分からなかった表情と顔立ちは、完全に闇と大差がなくなっている。
それでも今、末弟が一体どんな表情を浮かべているのか、嫌でも理解してしまった。脹相も弟達も、心から好きだったあの天真爛漫な───。
───長生きしろよ、脹相。
愛で縛られた永遠に続く呪いにして、心から祝福された別離の門出。
託された遺言を最後、初めて異変を感じ取り、意識を取り戻したのだった。
『⬛︎⬛︎』
目前には、目を固く閉じた末弟が横たわっている。試しに呼び掛けても、いつもの元気溌剌とした返事が無い。
脹相の掌の上に、そっと末弟の手が乗せられていたが、それは生物としての温度が宿っていなかった。
『⬛︎⬛︎』
それでも呼ぶ。弟の名を紡ぎ続ける。裡では理解しているというのに、認めたくないと駄々を捏ねている己が、こんなにも醜くていじらしい。
『⬛︎⬛︎……』
一番想像もしたくなかった、描きたくなかった未来が、到頭訪れてしまった。
弟が皆死んで、兄たる己が独り生き残るなんて、何たる皮肉だっただろうか。
少年が死したあの日から、色々あった。蛆のように沸いた呪霊を片っ端から祓い、難民を安全地帯へ避難させた。
大打撃を受けた呪術高専も、東京の復興に尽力して、御三家の間に渦巻く問題も改めて取り掛かった。
お陰で日本の首都と銘打つ都市とは到底思えない程に瓦礫だらけだった東京は、紆余曲折を経て元の姿へ復興した。否、元の姿以上に進化したと表現するべきだろうか。あの頃とは段違いの光景だ。
一年弱にして漸く多忙を極めた非日常から解放された時、壊相と血塗の遺体が脹相の元に帰ってきた。
綿密に検査された後、きちんと火葬され遺骨として骨壷に納められた。遺体の一部は、呪物として切り取られていたが。
最初は何のつもりだと憤慨した。だが死後は一部を呪物化して、末弟か脹相に取り込ませて欲しいと要望していたと知れば、その通りにしてあげるしかなかった。今では己を生かす歯車として回っている。
だが未だ、末弟の遺骨のみ返ってきていない。一度上層部に問い合わせたが、有耶無耶に濁されてしまった。前にこっそりと忌庫に赴いたが、特に呪物として保存されている様子もなかった。
いつしか遺体は行方不明となった。最後に残された弟を碌に弔えていないまま、今日も生きている己が、不甲斐なく感じる。
それでも前に、前に、進み続けた。愛する弟達から託された己だけの呪いを胸に、悲惨な現状から必死に足掻いた。
泣きそうになる心を押し殺し、泥を這い蹲る様に生きてきた。決して救われるとは信じやしないが。
(俺は、きちんとお兄ちゃんをやれてるか? オマエが残した遺言を、しっかり守れているか?)
こればかりは自分でも分からない。呪いから人間へと転じて今年で十年に経つが、未だに己の価値観が逸脱しているのではないかと感じる。
(分かってはいたことだが、ずっと模索し続けなければならんな。兄として更なる高みへ精進しなければ)
また春風が頬を撫でていく。この気温だと、直に桜が開花しそうだ。直に高専から収集が掛かるだろう。ただ、新年度も共に切磋琢磨して生きていこうと、互いに発破をかける為に。
(近い内に土産の準備をしておかなければな。伏黒辺りは気にしないだろうが、釘崎と枷場は確実に喧しくなる。面倒事はなるべく避けたい)
数珠を専用の袋にしまい、供えていた飲食とその半紙を回収する。最後に改めて墓石に向き合うと、穏やかに微笑んだ。
「六月には必ず来る。それまでは良い子に待っていてくれ」
その時、一際強い風が吹いた。思わずネックウォーマーに顔を埋め、温度と気道を確保した。風が止んだと感じると、恐る恐る顔を上げた。
「……元気づけてくれたのだろうか」
水鉢の水面上に、一枚の花弁が静かに浮かんでいた。まるで、嘗ての少年の温かな髪色を宿した、開花したばかりの桜。
桜は一度咲けば、瞬く間に徒花と散っていく。いずれは青々と茂る葉に覆われ、秋になれば紅葉としてまた散り行く。そうして、忌々しく思うようになってしまった冬が訪れるのだ。
それでも時間は残酷に刻まれる。人生とはそう言うものだ。呪術師として生きるなら尚更の話。凡ゆる因果の内に収まりきることはなくなる。それでも死者を想うことは、絶対に否定されないからこそ。
「壊相、血塗、膿爛相、青瘀相、噉相、散相、骨相、焼相、⬛︎⬛︎」
最後は名を呼んでも声にならず、桜の花の如く空気に溶けていく。
最愛の弟達が居たひと時は、遠い遠い過去となってしまった。
それでも己は此処にいる。一瞬一秒を生きる己がいるからこそ、脹相が過ごしたあの三年間は決して夢なのではなかったのだと、確固たる証拠があった。
だから今日も、“人”として苦しむ。それが弟達に生かされ、呪術師として生きる兄へのせめてもの罰だ。
「またな。祖父もどうか、俺の弟達を宜しく頼む」
今度こそ別れを告げると、御影石に背を向けて歩き出す。
閑静な霊園から出て暫く歩くと、元の賑やかな繁華街に戻ってきた。
(その前にケーキを買って帰ろう。弟は喜んでくれるだろうか)
適当に目に付いた店を選ぶと、少し重いガラス戸を開けて店内に入る。カランカランと来客を知らせる鐘が鳴った。
「いらっしゃいませー」
厨房から店員の声が聞こえてきた。それに少しだけ視線を向けた後、ショーケースの中身を静かに物色する。
定番の苺にチョコ、趣向を凝らせた抹茶小豆、最近流行りのピスタチオ。いずれも甘い香りを漂わせている。
(弟達が喜びそうな物……定番の物を頼むか)
本当は尋ねられたら良かったのだが、当人達はもうこの世にいない。喜びそうな物と言っても、結局は憶測でしかない。
それでも大切な弟達に思い遣りを以て、仏壇に供えてあげたかった。兄であると言う矜持があるからこそ、今日もこの世界を何とか生きていられるのだから。
「ありがとうございましたー」
店員の挨拶を背に店から出ると、悠々とした足取りで帰路に着く。
遙かな空の下、無気力で浮世離れした雰囲気を醸し出す茫洋な青年の後ろ姿が、次第に市街の雑踏に紛れて消えていった。
彼の名は虎杖脹相。外見こそ浮世離れしているが、佇まいは実に何処にでもいる何億人の一人の“人間”だった。