長姉の部屋がみんなの溜まり場とかいう幻覚
「兄者!!!」
ファーミンが目を覚ました途端、血相を変えてエピデムが寝台の上に身を乗り出してきた。
兄弟たちにとって、赤子が産まれたというニュースは喜ばしいものではない。セルが時折隠し通せないほど沈鬱な顔をする理由ぐらい、皆が察している。
「体調は!?!?呼吸器系の違和感はありませんか!?吐き気や痛みは!?!?」
「エピデム。今のところ呼吸に問題はない。僕はちゃんと回復してる。だから、エピデムは落ち着け。」
目を合わせて、名前を呼んで、ゆっくり明瞭な発音で。
動転した弟を落ち着かせながら話を聞く。
我ながら酷い状態だったらしい。複数の内臓破裂に骨折、脱臼、食いしばりすぎた奥歯にはヒビ。魔力が枯渇して身体強化もできなかった結果の惨状だ。産まれた赤子がすぐにお父様に連れて行かれた辺りで力尽きたらしい。
…本当に、情けない。
自分がここまで死にかけたのははじめてだからだろう、珍しくエピデムは動揺しきっていた。
たった今部屋に着いた瞬間高速で飛びついてきたデリザスタも、同様だ。
「あにじゃ、おきて、よかっっっ、あ、う、ゔゔぅ〜〜!!」
遠慮も容赦もないタックルがブチかまされるも、咄嗟にエピデムがオリハルコンで防いでくれたから無事に済んだ。
オリハルコンの立てた重い音に若干呆れながら、泣いて縋りつくデリザをあやす。
デリザが来て黙り込んだエピデムの目の下に不自然に纏わりついている魔力にそっと干渉してみると、案の定濃い隈が鎮座していた。
まだ12歳なのに、ずっと気を張り詰めてしまって眠れなかったのだろう。
自分が不甲斐ないせいで、この子たちは。
…まったく、仕方のない弟たちだ。
弱い、不甲斐ない、自分なんかが死にかけたぐらいでここまで揺らいでしまうなんて。
姉者ならばともかく、僕風情だぞ?
デリザスタの下に、弟が今回ほぼ確実に増えた。
ファーミンが産み落とした男の子は極めて膨大な魔力を持っていたはずだ。
自分たちよりも魔法の才能はだいぶ上だった。
あの赤子ならば、たとえ心臓の器として不適格であったとしてもこのまま城で養育されることになるだろう。
戦闘員として、稀有な才だから。
…思い込みかもしれない。容赦なく処分されるかも。でもそんな未来を考えると、身体の芯から響く痛みと焦燥が少しだけ和らぐような気がする。
とっくに情が湧いていたらしい。
あの子よりも優先しなければならないことは山積みだというのに。
「お、オレぇ、明日から、ッグズ、しばら、く、ぅえぇ…!、あさ、なったら゛、城、戻るッがらぁ!!!」
「そうか。ありがとうデリザ。…ああいや、僕はいい。姉者を頼む。」
丸1日意識を失っていたせいで若干舌が回らない。発話の違和感を完全に無視して、血の気の失せた顔で断じる。
弟たちのきょとんとした顔に焦りが募った。
…2人からすればそりゃあ不可解だろうけれども。
先ほどまでファーミンは大量出血と無理な骨格の変化で昏睡し、生死の境を彷徨っていたのだ。
それに対してまだ出産まで1ヶ月あるドゥウムはちゃんと健康だ。エピデムが研究器具を持ち込んで部屋に入り浸ってこそいるものの、見舞いに泊まりこむほどではない。
それに、この年頃の女子の成長は男子よりもずっと早い。
姉…ファーミンの一つ上のドゥウムは身長も体格も彼よりずいぶんとある。
男の身体に無理矢理子を産ませるという悪趣味な仕置きで死にかけていたファーミンのほうが弟たちからして優先になるのは当然である。
自己犠牲に寄りがちなのは兄弟全員当てはまること。でもそれにしたって自分が死にかけた直後だ。
まだ小康状態のほかの兄弟に対してこれほど切迫した雰囲気を出すというのは、異様だった。
感情を切り離した真っ黒な目をしたエピデムに問われる。
「…姉者になにかあるんですか?」
どこまでも冷徹な、研究者の眼差し。自分が人を殺すときもきっと同じ目をしているのだろう。
「…僕が孕むのはおそらく今回だけだ。身体への負荷は相当大きかったからまあ仕置きとしては有用だが、それ以上に内臓を作るのもいじって1年近く維持するのも手間がかかりすぎる。」
わざわざ男を孕ませるなんて、仕置きとしてわりに合わないのだ。
与える苦痛としても魔法寄生虫の変種を植え付けるほうがずっと手っ取り早く同じ効果を出せる。
今回の形式は戯れと実験の意味合いも強かったため実行されただけにすぎない。
だから、ファーミンが子を孕むことはきっともうない。
だが。
「姉者は違う。姉者は簡単に身篭らせることができるし内臓に手を加える必要もない。」
出産の痛みは決して強いわけではなかった。拷問用に使われる苦痛を与える魔法よりずっと弱い。このぐらいなら兄弟全員痛みには慣れているしやり過ごせる。
だが、苦痛というのは肉体的なものばかりじゃない。
ファーミンが最も堪えたのは、念入りに擦り込まれる無力感だった。
孕んでいる間ずっと、母胎としてしか見られなかった。
魔法も戦闘も自分で努力して得た能力であり、積み上げた結果だ。
戦いや殺しのために磨かれた、望んでなどいない技術。それでも己の研鑽と実力への矜持はちゃんとある。
でも、『これ』はそんなんじゃなかった。
種付けされてから、激しい運動や魔力の消費を禁じる枷をつけられた。
日が経つにつれてじわじわと腹が勝手に膨れて思うように身体を動かせなくなっていくことに、一切自分の努力も意思もなかった。
10ヶ月間ずっと、外を駆け回ることを許されなかった。
なんでもいいから自分で動こうとするたびに、そんな無理をする必要はない、とイノセント・ゼロを心底恐れる世話役や使用人たちに止められた。
ベッドの上に見えない鎖で縛り付けられるような生活だった。
『身重の母胎』に対する雁字搦めの真綿の拘束で何度も息ができなくなった。
精神が端の方からだんだんと壊死していくようだった。
意思を丁寧に丁寧に柔らかく押し潰され、『自分』が侵蝕されて消え去る悪夢を見た。
胎の子が順調に育っていくことをお父様に喜ばれるたびに、まだ生き残っていた自分のなにかが鑢がけされるように着実に削られていった。
下腹部に手を当てて呻く。
「…アレは、駄目だ。何もできなくなる。自分の価値が胎だけになる。」
仕置きとしてこの扱いを受けることになっただけの自分はいい。どうとでもなる。こんな無力感でもただの苦痛として耐えて抗えばそれで済むから。
…だが、姉は。
兄弟で一番戦闘のセンスがあり、強くて、賢くて、なんでもできて、美しくて、目を潰されても折れずにいてくれて、世界一かっこいい姉者は。
大切な『母胎』としての価値だけを褒めそやされ、ただひたすら部屋の中でじっと壊れやすい大事なモノとして扱われることを望まれ続けてしまったら。
「今回だけならまだきっと平気だ。でも繰り返されるようなら…姉者が、折れてしまう。」
空気が揺れる。デリザスタが息を飲み、エピデムの表情が消えた。
怠い。身体が重い。痛い。
ゆっくりゆっくり、シーツに手をついて慎重に身を起こす。笑みを作って、こちらを見下ろす2対の目をまっすぐ見返す。
「だからな、エピデム、デリザ。…姉者に、また組手をしたいとでもねだってくれるか。」
きっとそれが姉者は一番喜ぶだろうから。
そう続けると弟たちは僅かばかり緊張が解けたようで、少し表情を緩めて部屋を出ていった。
子どもの細い後姿に軽く感謝を告げて、また寝台に沈み込んだ。
…深くため息を吐く。
可能な限りの治癒魔法はかけられたようだが、それでも麻酔が切れた今は全身が痛んだ。特に下腹部や腰は少しでも力をこめたら激痛が走る。
一応動けなくはないが、骨格が歪められた違和感が大きい。さすがにここまでの損傷だとしばらく戦うのは難しそうだ。
…なにより。腹の重みが、ない。
数日前まで確かにあった温度が、鼓動が、魔力が、自分の胎から消えている。
半年ぐらい前からずっとすぐそばで脈打ってくれていた『命』が、どこにもない。
あの子は、お父様のもとにある。
いつ不要として殺されても不思議じゃない。
寒い。
室温は高めに設定されているにもかかわらず、寒くて寒くて凍えそうだ。
寒さに手が震える。
姉の腹からは魔力を感じなかった。
きっと姉の子がこの城で生きられる可能性は低い。
セルが処分するか実験に使い潰されるか、それで終わりだ。
どのみちドゥウムもこの寒さを味わうことになる。
…大丈夫、エピデムとデリザスタがいればこの寒さも和らいだから。
ドゥウムの部屋に研究資料を大量に持ち込んで最近は自分用の本棚まで設置したエピデムじゃないが、自分もリハビリは向こうでやることにしようか。
自分からも魔導書なりなんなりの差し入れもしてみよう。気を紛らわすものがあれば違うはずだ。
わずかな魔力を感知して文字を認識するなんて離れ業を一人で編み上げた姉だ。長いこと鍛錬ができず内心参っているようだし、きっと喜んでくれる。
だからきっと、姉は大丈夫。
兄弟にしか判らない程度、ほんの少しだけ上がった口角をゆっくり戻す。
広い自室にいるのは自分一人だけ。
ファーミンはがらんとした静かな部屋で黙って天井を見つめた。
今は、心身を凍てつかせる孤独感と罪悪感に身を委ねていたかった。
エピデムとデリザが部屋にいると空気が暖かくなってしまうから。
全身にじんわりと染み入ってくる二人の子どもの温度が居た堪れなかった。
…お父様の子として生まれた以上、人型の培養器として作られ、愉しい玩具と便利な手駒の両面から利用され尽くす人生が決まっている。
一歩踏み外せば取り返しがつかない深みに落下してしまう寸前の綱渡りを、兄弟たちと互いに声を掛け合って辛うじて凌ぎ続ける日々をずっと続けている。
いつもすぐ側にはポッカリと虚無感と無力感が口を開けて堕落を待ち望んでいた。
そこそこうまくやっている日常だって、血と汚濁に塗れながら大切な兄弟とセルに縋ってささやかな幸福を拾い集めるようなものだ。お世辞にもいいものじゃあない。
自分の腹で温かく重く育っていったあの小さくて柔らかいもの。あの子が自分たちのように生きるか不要とされて死ぬかの二択を迫られている現実が、とても重たい。
守りきる力を持たないくせに、腹にナイフを突き立てることもできなかった。
自分には、何も為せない。枷がなくても、なにも。
目元を両腕で覆う。眼球の奥が熱くなって刺されたみたいに痛む。
「姉者。……あねじゃ。」
絞り出した声は酷く震えていた。
会いたいよ。今すぐに。