【解説】 福島第一原発の処理水放出、その背景の科学は
ナヴィン・シン・カドカ環境担当編集委員、BBCワールドサービス
東日本大震災によって福島第一原子力発電所でメルトダウンが起きてから12年後、日本ではこの原子炉の冷却に使われた、放射性物質を含む処理水を太平洋に放出し始めた。
日本国内や韓国で抗議運動が続く中での決行だった。放出を受け、中国は日本産水産物の全面禁輸を発表した。
国際原子力機関(IAEA)は、処理水が人間や環境に与える影響は「無視できる程度」だとしている。
しかし、安全なのだろうか?
2011年の地震とそれによって起きた津波で、原発は破壊された。冷却システムが壊れ、炉心がオーバーヒートし、施設内の水は高濃度の放射性物質で汚染された。
東京電力は震災以来、この原発の燃料棒を冷却するため、水をくみ上げ続けている。そのため同原発では毎日、汚染水が発生しており、これまでに1000基以上のタンクが満杯になっている。
日本は、安全な廃炉作業のために新設備を建設するため、これまでタンクが置かれてきた土地が必要だと説明している。また、自然災害によってタンクが破損する可能性を懸念している。
日本はIAEAの承認を受け、この水を徐々に太平洋に放出している。第1回の放出は8月24日に行われた。全体ではこの作業は少なくとも30年かかるという。
もし日本が廃水を海に流す前に放射性物質をすべて除去できていれば、これほど物議を醸すことはなかっただろう。
一連の問題は、トリチウムと呼ばれる水素の放射性同位体が、原因となっている。トリチウムを水から除去する技術が存在しないため、東電は代わりに水を希釈している。
圧倒的に大多数の専門家は、放出は安全だと説明している。しかしその影響について、全ての科学者が同意しているわけではない。
トリチウムはあらゆる場所で観測できる。濃度が低ければ影響も最小限だと、多くの科学者が言う。
しかし、海底や海洋生物、人間に与える影響に関する研究がもっと必要だという批判もある。
IAEAは今年7月、福島第一原発の構内に現地事務所を開いた。そのIAEAは、「独立した現場分析」の結果、放出された水のトリチウム濃度は「運用上の基準となる1リットル当たり1500ベクレル未満を大きく下回る」と発表した。
この基準値は、世界保健機関(WHO)が飲料水における上限としている1リットル当たり1万ベクレルの6分の1に相当する。
東電は25日、放出当日に採取した海水のトリチウム濃度が1リットルあたり1500ベクレル未満だったと発表した。
環境省も25日に11カ所で海水サンプルを採取しており、27日にも分析結果を発表するとしている。
英ポーツマス大学のジェイムズ・スミス教授(環境・地質学)は、排水は貯留時に処理プロセスを経ている上、さらに希釈されているため、「理論上は飲めるものだ」と話した。
フランスで放射能レベルを測定する研究所を運営する物理学者のデイヴィッド・ベイリー氏も同じ意見で、「重要なのはトリチウムの濃度だ」と話した。「この程度の濃度でならば、例えば魚の個体数が極端に減少するなどしない限り、海洋生物に問題はない」。
しかし、海洋放出の影響は予測できないと指摘する科学者もいる。
米ジョージ・ワシントン大学のエネルギー・環境関連法の専門家、エミリー・ハモンド教授は、「放射性核種(トリチウムなど)が難しいのは、科学が完全に答えることができない問題を提示するからだ。つまり、非常に低いレベルでの被曝(ひばく)において、何が『安全』と言えるのかという問題だ」と述べた。
「私たちは、たとえ基準が守られたからといって、その決定に起因する環境や人体への影響が『ゼロ』になるわけではないと、それを認めつつも、IAEAの活動を大いに信頼することができる」
全米海洋研究所協会は2022年12月、日本のデータに納得していないとの声明を出した。
米ハワイ大学の海洋学者ロバート・リッチモンド氏はBBCの取材に対し、「放射性物質や生態系に関する影響評価が不十分で、日本は水や堆積物、生物に入り込むものを検出できないのではないかと、とても懸念している。もし検出しても、それを除去することはできない。(中略)精霊ジニーをランプに戻すことはできないのだ」と述べた。
環境保護団体グリーンピースはさらに踏み込み、米サウスカロライナ大学の科学者が2023年4月に発表した論文に言及した。
グリーンピース東アジアの原子力専門家ショーン・バーニー氏は、植物や動物がトリチウムを摂取すると、「生殖能力の低下」や「DNAを含む細胞構造の損傷」など、「直接的な悪影響」を及ぼす可能性があると述べた。
中国は今回の海洋放出を受け、日本の水産物の全面禁輸を発表した。これは政治的な動きではないかと考えるコメンテーターもいる。専門家によれば、放出される放射性物質はごくわずかなため、魚介類に関する懸念を裏付ける科学的根拠はないという。
しかし、太平洋に毎日接している多くの人が懸念を抱えている。
「ヘニョ」と呼ばれる、韓国の伝統的な海女(あま)の女性たちは、BBCにその不安を語った。
済州島で6年にわたりヘニョをしているキム・ウナさんは、「今では、海に潜るのは安全ではない気がする」と話す。「私たちは全身を海に沈めているので、自分を海の一部だと考えている」。
専門家らは、処理水は海流、特に黒潮によって運ばれていくと考えている。
漁業者はBBCに対し、自分たちの評判が永久に傷つけられることを恐れていると話し、仕事への心配を口にしている。
太平洋諸島フォーラム(PIF)議長を務めるクック諸島のマーク・ブラウン首相は22日に声明を発表し、IAEAと同様、日本の計画は「国際的な安全基準を満たしている」と信じていると表明し。
その上でブラウン首相は、この「複雑な」問題について太平洋地域のすべての国が同じ意見を持たないかもしれないものの、「科学の知見を判断する」よう各国に促した。