「武に云わしめた武内殿も、さすがに弱っておられるようですな。」
武内宿禰はこの飄々とした老人に言い返す気力もなかった。
対馬海流の波は容赦なく、幾度も転覆かと思わせるほど船は揺れた。
大海原に流される木の葉のような船にあっても、さすがは海人、
安曇磯良をはじめとする安曇一族は平然と船を操っていた。
(姫様はご無事だろうか)
神功皇后は臨月を迎えている。
この高波は体に障るのではと気が気ではなかった。
武内宿禰は忠義を誓った大王の妃とその子に、生涯を賭することを心に決めている。
何としても大望を遂げ、無事に母子を大和まで送り届けなくてはならない。
「津島と言うのはまだ遠いのか。」
武内宿禰は磯良に聞いた。
海上にはうっすらと霧がかかり、一面白く包まれていて何も見えない。
「なに、ほれ岸が見えませぬか。 もうそこまで来ておりますよ。」
よくよく目を凝らして見ると、切り立った崖が見えてきた。
「おお、」
その島は、死ぬ思いをしてきた武内宿禰には、あまりに神々しく見えた。
そして次第に浜も見えて来る。
するとその浜の前の海上に、幾艘もの船影が見えた。
「島の民の出迎えか。」
武内宿禰の言葉に、磯良の顔は険しくなる。
「いえ、あれはどうやら敵の出迎えのようじゃ。
あの船は異国の船でございます。」
穏やかさを取り戻しつつあった海域に緊張がほとばしった。
【豆酘浦】
対馬海峡をなんとか越えた神功皇后の船団は6月1日に対馬の豆酘浦(つつうら)に上陸します。
豆酘浦では、「まきどう」という人力で船を引き上げる装置が港に立ち並びます。
これほど「まきどう」が並ぶ景色は、今ではこの豆酘で見られるばかりとなりました。
また豆酘浦には漁師小屋が立ち並んでいますが、かつてはこの屋根は全て石屋根だったということです。
石屋根とは暑さ1cmくらいの石の板を並べて置いたもので、その石は頁岩(けつがん)と呼ばれます。
太古の昔、湖や海の底に粘土質の泥が堆積して固まったもので地層になっており、それに沿って剥離しやすいのが特長です。
この頁岩は対馬には非常に多いそうです。
そして港の一角に皇后が腰かけた石というのがありました。
この青い石と黄色の石に、神功皇后と武内宿禰が腰かけたと伝わります。
その折、皇后は
「都にて 山の端に見し月影も 波より出でて 波に入りぬる」
と詠まれたそうです。
この石の間を通ると、腹痛を訴える人が多いことから「腹せきの石」と呼ばれるそうです。
【神住居神社】
豆酘(つつ)地区に島民最大の聖地の一つ、「多久頭魂神社」(たくづだまじんじゃ)があります。
その境内の一角にあるのが「神住居神社」(かみずまいじんじゃ)です。
神功皇后の行宮(あんぐう)として一時的な宮殿だった神住居神社、
それは深い杜の中にあります。
多久頭魂神社の参道から横にそれた苔の道の先にあります。
拝殿は神さびていました。
ここに伝わる豆酘の船浮神事(ふなうかし)は別名カンカン祭りと呼ばれ、
赤船と白船に分かれて子供たちを捕まえるお祭りが行われます。
これは皇后が新羅の軍勢を捕虜にした伝承にちなむようです。
対馬といえば九州本土よりも韓国に近いくらいです。
すでに新羅の兵がここで皇后たちを待ち構えていたのかもしれません。
神住居神社のすぐ裏手には「淀姫神社」がありました。
神功皇后の妹と言われる「淀姫/豊姫」も同行していたのでしょうか。
【与良祖神社】
壱岐では内地を進んだ神功皇后ですが、対馬は険しい山が岸まで迫る、平地の少ない島でした。
なので対馬は島の外周を港に立ち寄りながら進むことにしました。
豆酘浦を出港した皇后らは厳原の港へやってきます。
そこにある宝満山の麓、「与良祖神社」(よらのみおやじんじゃ)に皇后の足跡がありました。
与良祖神社の参道は本当にわかりにくいところにありました。
細い山道を登ります。
本当にこの先に宮があるのか、不安になってきた頃、
何やら入り口のようなものが見えてきました。
社があります。
ここが与良祖神社なのか半信半疑でしたが、
拝殿の中の由緒書きを見て安心しました。
ここは神功皇后に豊玉姫が「新羅は外側は強いが内部が脆い。急襲せよ!」と神託を下したと伝わります。
実はこの先の宝満山山中にすごい神跡があるのですが、この時は失念していました。
またいつか、リベンジしてみます。
【浜殿神社】
厳原の市街地に「浜殿神社」(はまどのじんじゃ)という小さな祠があります。
4世紀ころはここまで海岸線で、豊玉彦を祀っていました。
ここに神功皇后の行宮がありました。
【与良石】
対馬市役所前にある「与良石」(よらいし)も、もとはここが海岸で、皇后の輿を据えたところと伝わります。
【厳原八幡宮神社】
対馬の厳原港から歩いていける距離に、立派な八幡宮があります。
「厳原八幡宮神社」(いずはらはちまんぐうじんじゃ)はとても由緒ある神社でした。
境内の正面には幾つもの石塔が立ち、その向こうに境内社がいくつかありました。
「今宮・若宮神社」(天神神社)の御祭神は小西行長の長女「小西夫人マリア」(クリスチャン)とその御子です。
今若・若宮神社として祀られていたものが天神神社と合祀されて現在に至っているそうです。
「宇努刀神社」(うのとじんじゃ)は神功皇后の凱旋の折、島大國魂神社の神霊を分けて皇后自らここに祀ったそうです。
島大國魂神社は島民も足を踏み入れない禁足地で、スサノオを祀っています。
さて、古めかしい楼門を越えていきます。
神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀りました。
655年(白鳳6年)、天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝えます。
対馬には上県郡と下県郡に八幡宮があり、上県郡のものを上津八幡宮(現 海神神社)、下県郡の当社を下津八幡宮と並び称しました。
1871年(明治4年)、ここが「和多都美神社」に比定されて、和多都美神社に改称し、対馬国一宮であるとしたそうです。
しかし1890年(明治23年)に元の八幡宮に戻し、地名から「厳原八幡宮神社」と変え、現在は式内社・対馬国一宮と称していないそうです。
現在「和多都美神社」は別にありますが、名前による無益ないさかいを避け、身を引いたのでしょうか。
とても慎ましい神社だと思いました。
【住吉神社/雞知】
対馬にも、いくつかの「住吉神社」がありますが、これにも神功皇后が関わっていることが多いようです。
雞知村にある住吉神社は、昔、鴨居瀬の住吉神社を移祭したものだそうです。
不思議なことですが、祭神は、草葺不合尊・豊玉姫命・玉依姫命となっています。
これらは和多都美系の祭神です。
住吉神社なら本来の祭神は、住吉三神の表筒之男・中筒之男・底筒之男のはずです。
境内の端に「脇宮和多都美神社」がありますが、社伝によると神功皇后は三韓征伐の時に雞知村に和多都美神社を造営したといいます。
ここは元は「和多都美神社」だったのかもしれません。
神功皇后紀をはじめから読ませていただいてます。
まさか神功皇后紀絡みで対馬の宝満山が出てくるとは思いませんでした。
那珂川市市ノ瀬の日吉神社由緒記にある赤米に関連して、対馬と種子島の「宝満」がずっと気になっています。
実際の様子がうかがえてありがたいです。
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対馬の宝満山は豊玉姫を祀っているそうですが(筑紫方面は玉依姫が主流ですね)、当社の奥社にはちょっとすごいものが眠っていました。
そのミニチュアとも呼べる石祠が、神住居神社も鎮座する「多久頭魂神社」境内の聖域「不入坪」にもありました。
そして多久頭魂神社に所縁ある神事として、赤米神事が今も受け継がれています。
それは赤米の米俵がご神体となる、他に類を見ない神事のようですが、「赤米=サルタ」なのだとしたら、赤米神事はサルタ彦を祀る祭事ということになるのでしょうか。
那珂川の日吉神社には長く通っていましたが、赤米・サルタとの繋がりには気づいていませんでした。
日吉神社近くには「税を取り立てない場所」という由来の「不入道」がありますが、不入坪との呼び名の類似も気になります。
種子島にも、いつか行ってみたいですね。
https://omouhana.com/2018/11/08/オソロシドロコ(裏八丁郭)/
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紹介していただいた記事を拝見しました。
対馬は豊玉姫なのですね。
勾玉と鏡と剱の姿、そして海藻。
すごいです。
感動でちょっと言葉にならないでいます。
これを書いてくださってありがとうございます。
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対馬の観光協会の方のブログでは、昔、毎年こちらの奥社に参拝して写真を撮っていた方の話が紹介されていました。
10年目に撮った写真には、子供を抱いた美しい姿の女性と、数人のお付きの方の姿が写っていたそうです。
その女性は豊玉姫だったということで、撮影された本人はその後、神職の資格を得て宮司となったそうです。
順番的にもうすぐ行き着くと思いますが、対馬には豊玉姫の御陵と云われる和多都美神社もあり、龍宮を感じさせる何かがあります。
行って見たくなりませんか?対馬(笑)
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