富士の呪海

 富士の呪海

 平安宿儺とカザリこと「天障」の邂逅譚。宿儺とカザリはこんな感じで因縁がありますよー、的な自己設定です。

「これが樹海・・・」

 都から遠く東に位置する駿河。その地に裾野を広げる雄大な樹海をそなえた山は、都では富士の山と呼ばれていた。

「成程、これは霊峰といわれるのも頷けるな。呪力に満ち溢れながらも呪霊が存在しない。聖域とでも言ったところか」

 一人、木々の中で独り言に精を出す男がいた。七尺はあろうかという背丈に、虎のような猛々しい肉体。顔の半分は枯れ時を見逃した巨木の樹皮のように歪み、目は四つ、腕は四本そなえるという異形であった。その男を、人々は「両面宿儺」と呼ぶ。何を思ったか、彼は都から離れたこの駿河の地に来ていた。彼に限って、竹取物語に語られた富士の山を見に行こう、と考えたわけではあるまい。

「いや、言い違えたな。呪霊はいる。それも一体だけのようだが……」

 虚空に声掛けるように、両面宿儺は、己の顔の半分に負けぬほど樹皮を捩じらせた一本の巨木の根に目を向けた。そこには、古びて腐り果てた女物の着物の断片と、わずかに残ったそれらをひっかけた白い骸が寄りかかっていた。

「いい加減出て来い。木陰に隠れてこそこそ様子見など、藤氏の阿保共もしなかったぞ」

 宿儺が挑発的に言葉を発すると、動くための筋肉などとうに失って久しい骸が僅かに音を鳴らし、しゃれこうべがくしゃ、と落ちて崩れた。

「そうか、私のことを言っているのか」

 聞こえてきたのは女の声だった。どのようにして現れたか、崩れた髑髏を足元に、身長五尺半程度の女が、実に簡素な男物の狩衣を身に着けて立っていた。

「何を生意気なと半ばいきり立って出てきたは良いものの、何だ名も知らぬ小生意気な若造か。顔を見せて損したわ」

 呪霊、というにはあまりに人であった。見たところ歳は二十そこそこ。人のものではない呪力がにじみ出ているとはいえ、外面のみでならば宿儺よりもよほど人間であった。女はさぞ面倒くさげに両眼を細め、蠅でも払いのけるかのように右手を払った。

「貴様のような見る目にも無粋なものがここにいると煩くてかなわん。疾く去ね、祓われる気もな」

 キンッ、と金属質な音が静寂を切り裂くと同時に、その音と不釣り合いなほど柔らかそうな女の右手首に一筋の線が刻まれた。

「お?」

「ふん、見えんのか。その程度で俺に大層な口を利くつもりでいるのか? 興が削がれることだ」

 女の右手がボトリと地面に落ち、切断面からはだくだくと気色悪い色合いの液体が脈打って流れ落ちる。女は興味津々といった様子で自分の右手があったはずの空虚を見つめ、止まることなく滴り落ちる己の体液を眺めていた。

「どうした、そんなに自分の体が珍しいか? それならば俺が代わりに見てやろう。貴様自身が見られるかどうかは知ら」

 ぼちゅっ、と生々しい音が台詞をとどめると同時に、宿儺の顔半分が赤く塗りたくられた。何が起きたのやらと勘繰る間もなく、四本ある腕のうち一本の感覚が消えていることに気付いた。

「ほう……?」

「はっ、分らんのか。私はお前にこの手で触れたはずなんだがなぁ? 私程度の力ではその程度も感じられないほどお前の皮は厚いらしい」

 女がひらひらと振って見せたのは、先ほど宿儺によって吹っ飛ばされたはずの右手であった。呪霊は、己の肉体を呪力によって再生させることができる。蓄える呪力が多ければ多いほど、その呪霊が強力であるほど、その速度は早まる。つまりは、そういうことだ。

 宿儺は高揚感から来る不敵な笑みを口元に覗かせながら、感知する間もなく消し飛んだ左の下の腕を反転術式で治し始めた。そこには、この女は自分が腕を治しきるまで次の行動を起こさないという確信的な思いがあった。それと同時に、目の前に所在なさげに立っている女に対する不思議なほどに頑固な征服欲がこみあげていた。

「女、名を言え。最近呪霊ごときにも名が付くこともあると知ったところだ、喰らう前に聞いておこう。なに、切り身にして出された魚の名前を聞いているだけだ。食材が気張る必要もない」

 それまで苦虫を噛み潰したような顔をしていた女が、そこで初めて明らかに笑みを浮かべた。女は突拍子もなく大口を開けてけらけらと笑い出し、その息で言葉を返した。

「何が出された魚だ。貴様の腕一本は先ほどつみれにされたばかりだと言うに、面白いなぁ。マラとかいう役に立たん棒が付いただけでつけあがるなよ、案山子」

 言い終わると同時に、宿儺の腕が完治した。

「ずいぶん気骨のある女だ。俺にすり寄ってくる女など二人しかいないが、貴様はそのどちらとも違うな。貴様はなんだ? 口が動く死人には初めて会うものでな、先達には後進を育てる義務があるだろう?」

「『天障』だ。天に差し障ると書く。弟の名前は憶えているが、お前に身内自慢をするつもりもないし、人である頃の名も百と数十年前に忘れた。お前こそ名前を言え、私は今言ったぞ」

 ほれほれとお茶らけたように手招く女は、すでにその体に呪力を行き渡らせていた。流れに無駄がない。呪霊だからか? その事実を加味してもかなりの手練れ。

「俺の名は言わん。周りの連中から堕天やら、呪いの王やら、両面宿儺やらと呼ばれている男だ。貴様こそ俺の名を知る意味も理由もないだろう」

 言うが早いか、女、天障が視界から掻き消え、それと同時といって差し支えないほどの勢いで宿儺の懐にもぐりこんだ。

(速い…!)

 突如懐に”現れ”、その細い指先で触れようとする天障に対し飛び退いて距離を取りつつ、宿儺はその術式を腕二本でもって発動させる。

「【解】」

 瞬間、目に見えない複数の斬撃が格子状に女の顔面にたたきつけられ、バツを重ねたような切創が大量に女の顔に浮かんだ。しかし、それでもって女は止まらない。【解】によって押し戻された分を地面を蹴って補い、狼のように鋭く飛び掛かった。右手に呪力が集い、呪力球となったものがぎゅっと押し縮められる。

「私の術式は『圧縮』なのだ、若造」

 天障が宣言すると同時に宿儺の腹に小さな拳がたたきつけられる。先ほど斬撃を放った腕二本でもってしっかりと受け止められた拳は、それ以上動かない。非力だ。呪霊となっても女は女。都で宿儺に近寄る女の片方と比べ、殴り合いに張りがない。残念に思った宿儺がその手を握りつぶそうと力を込めた瞬間、女の手にこもっていた呪力が突然極端に凝縮し、それに伴って”圧”を増した。

「【咒花火】」

 膨れ上がった呪力は強化された宿儺の握力をもってしても封じきることができなかった。組んだ指が四方八方に向かって曲がり、女の手を握りつぶそうとしていた自分の手が、中にものを詰めすぎていよいよ耐えられなくなった葛籠の留め具のように弾ける。下の腕が跳ね上がり、がら空きとなった腹に天障の拳が今度こそめり込んだ。初手の一撃と比べるまでもない威力の拳は宿儺を真後ろに吹き飛ばし、巨木の一本に激突させた。

 彼女はどこか満足そうにその様子を眺め、けらけらと、「若い、若いなぁ」と笑っていた。

「この程度で吹き飛ぶとは、若いことだ。上背も、膂力も、腕も目も呪力も私より多いのにな。折角だ、色々教えてやろう」

 宿儺が吹き飛んだ方向へ嬉々とした表情で突っ込んでいく。一方、宿儺は背中を木に擦り付けるように座りなおし、右の下の腕を地面につけていた。

「私の術式は【圧潰】だ。これは術式の目立つ点のみを言い表しているゆえ、完全に説明した術式名ではない。術式には圧縮からの解放も範疇として機能付けがされているのだ」

 宿儺の目の前で地面を踏みこみ、関節の限界まで振りかぶった拳に呪力をみなぎらせ、天障はその樹皮のような顔面に狙いを定める。

「【捌ー蜘蛛の糸】」

 地面に触れていた宿儺の手から蜘蛛の巣上に亀裂が走り、その亀裂が天障の足にまで達するまでに刹那もかからなかった。

「俺の術式には二種類の斬撃が存在する。一つは、初手で貴様の右手首を落とし、お前の顔面に格子柄を付けた【解】。もう一つは、今貴様の脚を細切れにした【捌】だ」

 言いながら宿儺は、体勢を崩した天障の腹に見事な精度で二つの左拳をめり込ませた。今度は天障が背中から吹き飛び、巨木を二、三本圧し折って吹き飛ぶ。

「話は続くぞ。いわば俺の術式は刃だ、とりあえず叩き切る鉈のような一丁と、牛刀から小刀、鑿に鉋、幾つもの種類が取り揃えられている厨子のようなものだ。俺はその二つを自在に使い分け、何であろうと刻む。ちなみに今ものを言っているのは腹にある口だ。便利だぞ?口が二つあるというのは。息が切れずに術式を開示し、貴様のような阿婆擦れを退かせる」

 地面に何度か叩きつけられ、毬のように弾みながらすっ飛んでいったために上がった土煙で見通しは利かなかったが、呪力の気配は変わらず残っていた。頑丈さでいえば万以上だろう。しかしどうにも体裁きがなっていない。直線的でわかりやすい動き。反撃を予想せずに突っ込む愚の骨頂。いくら呪力をそのまま流すだけで回復する呪霊であるからこそ可能な戦法であるとはいえ、そこらの呪霊となんら変わらんではないか。これではいくら硬かろうと、罅を入れ、そこに静かに刃を滑り込ませれば、好きなように卸せる。

 口程にもないな。失望した宿儺は深々とため息をつき、印を結んで呪力を集中し始めた。

「話を聞け蟲が」

 上下反転。落下。衝撃。衝撃。そして視界には五体満足の天障。

「おや、自分の外見を知らんらしい。二面四臂二脚の姿、そのまま蟲だろう。だからこそなのかもしれんが、他人が話している最中に拳を突っ込み、あまつさえちゃっかり術式の開示をするとは…礼儀知らずなことよ」

 天障はひっくり返った宿儺を注意深く見据えつつ、口を開いた。

「先ほども言ったように、私の術式【圧潰】は、圧し潰しとその解放が一組になった術式だ。そして、術式の発動には通常対象に触れる必要がある。私が人間だったころはここまで感覚が広くなかったからなぁ、言葉にならんが、私やお前が存在するこの『場』そのものに触れられるようになってから、大いに変わったわ」

 天障が滑らかに指を振り、何もない虚空を引き寄せるように左の人差し指を引くと、一本の巨木が幹の半ばからくの字に折れた。さらに天障が爪弾くと、尋常でない力に無理やり引きちぎられたように、折れた木の上半分が放り上げられた小枝のようにくるくると回って明後日の方向へ吹き飛んでいった。現代の言葉に触れた天障は、その時、空間そのものを操っていたと後々知ることになるが、三次元などといった言葉が生まれてすらいない時代、空気を操ろうと成しえないその巨大な力は、その瞬間宿儺の脳内に強く刻まれた。

「今お前を吹き飛ばしたのは、【空圧】という拡張術式だ。尺取り、ないしは物差しを知っているか? 世界にそれを見て、その目盛りを私の任意で圧縮するのだ。しかし切り取るわけではないから持ち運びにはできない。だから頭を使うのだが、たまにこういった頭を使わなずただただ強制的に吹き飛ばすためにも使える」

 宿儺がのそりと起き上がると同時に、天障は身軽に飛び跳ねて宿儺の右へ回った。今度は体をひねって後ろ回し蹴りを仕掛けてくるのを宿儺は左の上の腕一本で受け、その下の腕で足をつかみ取り、地面にたたきつける。その手ごたえに違和感を感じた宿儺は即座に脚をつかんでいた腕で術式を発動した。

「【捌】」

 片足が簡単に吹き飛び、さらに宿儺は上の両手で同時に【解】を発動する。時間差ほぼなし、不可視かつ超高速の斬撃の雨。地面が格子状に切り込みを入れられ、悲鳴を上げる代わりに地響きを立てて揺れた。

 ストっ、と軽い音を立てて着地するした直後天障は再び恐るべき速さで宿儺に詰め寄る。その時、宿儺は不敵な笑みを浮かべていた。

「わるいな、そろそろ時間が惜しい。終わりにさせてもらう」

 上の両手が掌印を組み、腹に開いた口が嬉しそうに開く。閻魔天印。

「領域展開 〚伏魔御厨子〛」

 聞き返す間もなく地面が黒く透き通った水面に置き換わり、乱雑に積み上げられた多種多様な生き物の頭骨の上に鎮座する金堂が泡をあげてせりあがった。

 宿儺の領域、伏魔御厨子。それは死の空間である。領域の効果によって飲み込まれた者には術式必中効果によって【解】と【捌】が浴びせ続けられる。特殊効果はないが、不可視であり一定の威力を持つ上、形状変化も可能である高速の斬撃【解】は呪力の無い物体へ、対象の強度および呪力量に応じて最適な強度を自動で感知し、一撃で切断する【捌】は呪力を持った物体へ、領域が解除されるまで永遠に降り注ぎ続ける。

 さらに、宿儺が今展開している領域には結界術による空間の分断は発生していない上、領域の範囲は自身を中心とした半径六十尺程度、メートル法にして20m弱という超限定的な範囲にまで絞ることで、術式効果を極限まで引き出していた。懐にもぐりこんで直接触れて術式発動、もしくは先ほど見せた【咒花火】とかいう技でちまちまと披露させて来るのが常套手段だと分かれば、逆に潜り込ませてしまえばよい。即座に領域を展開し、何もさせずに切り刻む。それで十分だ。

 極小範囲に飽和する斬撃が、自分の背丈の三分の二ほどのものに集中して降り注ぐ。この領域に取り込まれた生きているものなど存在しない。

「なぜ止まらんのか分かったぞ。大人しく卸されておけ呪霊、そんなに痛みが好きか?」

 その例外が、たった今目の前で生まれた。見れば、斬撃が当たってすらいないわけではない。直撃している斬撃さえ存在する。しかし不思議なことに、その肉体が切断されることはなかった。

「いや、痛いのは嫌いだ。しかし学べるとくれば痛みなぞ買ってでも受けてやろうと思っているのだよ。いやはや、これは学ぶことが多いな、二種類の条件が分かったぞ」

 現在進行形で斬撃を浴びつつ、ほとんど傷に数えるまでもない浅い無数の切創を負い続けながら天障は続けた。

「呪力だ。それがこの領域に付与されたお前の斬撃の種類が変わる鍵だ。呪力が無ければ見えぬだけの斬撃が、呪力があれば見えぬ上に確実に引き裂きに来る斬撃が飛んでくる。そこで私は考えた、呪力が存在しない空間をわずかにでも作ればよい」

 天障の皮膚に刻まれる傷は、見るからにその数を減らし続けていた。再生速度が上がっているわけでもない。斬撃の苛烈さは増し続ける。呪力の流れを注視すれば、その一撃一撃が何か異常な歪みによってはじき返されているのだということが分かった。

「呪力が存在しない空間を作るにはどうするのか? これに一番悩んだ。手っ取り早い解決策だったが、どうやら世界の物差しの目盛りを圧し潰しては戻し、戻しては圧し潰しを高速で繰り返せば、目盛りそのものがずれて呪力が私の近くから強制的に押し出され、層のように呪力のない空間が作り出されるようだ」

 天障がゆっくりと片足を上げ、正面、左右、背後、頭上から降り注ぐ斬撃の雨をかき分けながら宿儺へと歩み始めた。

「では、あとは私自身の呪力をどうすればよいのか、という話だが、これにはそれほど時間がかからなかった。生み出されるそばから私の術式で圧縮すればよい。領域による自動判定をすり抜ける囮に使うのも良いが、その案はちと不安だ。だからそうした。圧縮された呪力は表面上反応が小さくなるからな、うまく騙されて弱い斬撃しか飛んでこないという寸法だ。これを考え出すのは楽しかったよ」

 天障の歩みは、宿儺まであと五歩というところで止まった。その時点で、すでに天障には傷一つつかなくなっていた。

「余裕がないか? 時間が惜しいか? 私はお前と楽しく遊べて満足だ。しかし、遊びというのは終わるからこそ楽しめるものだと、私は理解している。遊びが終われば次は何の時間が来ると思う?」

 したり顔の天障は、その場で掌印を組み続けている宿儺に倣うように掌印を組み始めた。右手の人差し指を立て、それを左手で包み込む。密教における最高仏、大日如来を表す印、智拳印である。

「学ぶ時間だ」

領域展開〚無間地獄〛

 やけに響く声が樹海に響き渡ると同時に、宿儺の開いた領域を結界が取り込み始めた。開いた領域という、空に絵の具を乗せるに等しい技術を有する宿儺の領域が、他者の領域に、それも閉じた領域に、簡単に押し負けていた。

 そこは、闇だった。闇以外何もない。影の中さえもこれほどまでに黒くあるまいと確信するほどの暗黒の中、自身の体だけが妙に浮き上がって見えた。

 上下左右前後天地、すべての方角をないまぜにされていると錯覚するほど、その空間は均一だった。

「驚いたか? 縛りだ。私の領域はたった一つの対象しか領域に引きずり込めない。その代わりに、他者の領域を蝕んで己の領域を展開できる。領域の必中効果も単純だ。お前は私に近づけない。しかし私からは近づくことができる。お前と私が互いに両手を伸ばして触れ合える距離に来るまで、互いに一切攻撃を当てることができない。まさに無間の地獄というわけだ」

 見通しも何もない均質な闇の中、宿儺は一切動くことはなかった。声の聞こえる方向と距離を割り出そうとしても、意味をなさない。数発【解】を放ったが、なにかに当たることもなく、代わりにおちょくるような笑い声が返ってくるだけ。それならば待つしかない、と考えたのだ。

「そうか、動かないか。諦めがいいものだ」

 距離感のつかめない声の反響が終わると同時に、宿儺は全方位に向けて一斉に【解】を放った。

「ほう、良い勘だ」

「しかし早すぎる」

 二言の間に、両面宿儺は数十もの自身の拳を叩きこまれたような感覚に襲われた。

 何物よりも黒く染まった結界の中で、それとはまた質の異なる黒が、稲光のように煌めいている。感知さえ困難な数十の打撃、そしてその軌跡に沿っているであろう黒い稲光。紛うことなき黒閃。

 領域が解除されると、そこにはすでに誰もいなかった。

 皮膚が破け、ずたずたになった筋肉が露出した腹部に反転術式をかけながら、宿儺は周囲を見渡した。呪力を探っても一切気配がない。

「勝ち逃げ、というやつか。これには一杯食わされた」

 天障。数百年前の巻物を読んだときにその名を目にしたことがある。天に差し障る者。高慢の権化。近づくものどころか遠巻きに眺めるものさえある時期から存在しなかったという幻の術師。宿儺が目にした巻物には都から立ち去ったとする考察がなされていたが、どうやら正しいようだ。

「その名と呪力、覚えたぞ。次は貴様を裂いてやろう天障。それまで三下術師共に祓われてくれるなよ」

 傷の修復を終えた宿儺は、踵を返して樹海を出るために歩き始めた。背後に視線を感じたが、振り返ることはなかった。


 それから約1000年後。富士の樹海に調査に入った一級術師紫藤炬と出会い、紫藤カザリを名乗るようになるのは、また別のお話。

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