横須賀聖杯戦争①

横須賀聖杯戦争①



 柄でもないのに美術館なんぞに足を運んだのが運の尽きだったのだ、とその少年は後悔していた。

 自身のリハビリがてらにランニングに繰り出し、真夏の猛暑から逃れる休憩がてらに近くの美術館に入った。閉館時間まで一時間足らずだったが、涼む程度には十分だろうと。

 夏休みシーズンにしては随分と少ない客足に愚かにも違和感を覚えないままに、学生割の料金を払って美術館の奥へと足を踏み入れる。

 開かれていた展覧会の一つ──アイルランドの文化遺産展──を観賞していたところで、なんだか脳髄が痺れるような厭な目眩を覚えた。

 歩を進めるたびに視界がボヤけ、思考に靄がかかっていく。思い返せばこの時点で回れ右をしてこの美術館から全力で逃走するべきだったのだが──だとしても無駄な行為に終わった気もする──そんな考えにも及ばない程に頭が曇ってしまっていた。

 鈍い歩をそれでも進め、曲がり角を一つ曲がったその視界に飛び込んで来たのは。

 惨劇の一言だった。

 展示物を収めていたであろうディスプレイは悉く粉砕されている。

 どうやら自分がそうであるように美術館の客はこの広めのエリアに誘き寄せられていたようで、ここまで目にしなかった他の観覧者達が何人もそこにいた──自分との違いは、その人々がもう一人として生きていないというだけである。

 首を捩じ切られた死体、胸元に穴が空いた──心臓を引っこ抜かれたのだと理屈なしに直感した──死体、そして、幾つもの両断された死体。


「また来たな。どうするアサシン、食べるか?」


「んー? うちはもうご馳走になったし、生き肝も十分貯まったしなあ。お嬢の好きにしたらええんとちゃう? うち、お宝見繕うのに忙しいんよ」


「そう。じゃあ、斬るか」


 ベリーショートヘアのその女は日本刀を手にしてゆっくりとこちらに歩いて来ていた。

 その背後では砕かれたディスプレイの向こう側で、少女の姿をした『ナニカ』が展示品を物色している。


「あんまりええもん見当たらんなあ。ここらへんで宝物がありそうなんはここくらいやって聞いたから楽しみにしてたんやけども…………これやったらお嬢の佩いてる得物の方がずっとええわあ。そりゃうちの首刎ねよった牛女のソレとまでは言わへんけど」


「キミの首を刎ねたって…………もしかしなくてもソレ、安綱じゃないのか」


「せやねえ。うち切や、うち切」


「その言い方だと週刊連載みたいだな…………流石にコレも国宝と比べられたらたまらないだろう」


 軽そうな口調でナニカと言葉を交わすその女は、真っ赤に染まったその空間で一片の血飛沫も浴びていないようだった。

 服や身体はおろか、手にする日本刀にさえ一滴の血雫も見当たらない。見かけだけならコスプレか演劇のようにさえ映る。

 だが、不思議と確信した。

 この空間に散らばる無数の亡骸。

 そのほとんどをつくったのは、この女だと。

 逃げなければいけないのに、叫ばなければならないのに、身体が言うことを聞かない。

 女は氷のような鉄面皮でこちらへ向かってくる。

 死ぬ、殺される。

 揺らがない確信がありながらも、ただその時を待つしか──


「お嬢、下がりっ」


 ディスプレイの向こうからナニカが叫び、その声に応えて瞬時に背後へと飛び退いた。

 ──甲高い風切音が響き、わずかに残ったディスプレイのガラスが更に横薙ぎに両断される。

 刀を持った女は頬から血を流しながら、そのまま後退し、逆に奥のナニカは女の側へと跳躍してきた。


「…………なんでアレを躱せるのよ。ホントに人間?」


「申し訳ありません、マスター」


 背後から二つの声が聞こえた。

 しかし、思考も身体も鈍りきった状況では何も出来ない──

 ──ポロロロン。

 あまり聞き馴染みのない楽器音がその場に響く。

 すると途端に力が抜け、その場に膝をついた。いや、膝をつけたと言うべきか。


「…………ここでもまた随分と派手にやらかしてくれてるじゃない。神秘の隠匿を何だと思ってるのかしら」


「? 悪いが言っている意味がわからないな」


「…………まさか、素人だっていうの? これだけの事をしでかしておいて? 悪い冗談ね」


 声は段々と近づいてきて、そして少年の隣を踏み越える。

 赤い髪を靡かせた騎士と、外国人らしい風貌の少女がそこに立っていた。


「まあ良いわ。神秘の隠匿という面でも聖杯戦争という面でも、あんたらを生かしておけないのは同じだしね。これまでも何回か似たようなことをしでかしてるでしょ、そのアサシン」


「せやねえ。せっかく年月飛び越えて遠い現世にまろび出たんやし? そら楽しまな損やろ」


「…………楽しむ、ですか。ここまでの所業で察してはいましたが、言の葉を交わす意味のない魔性の類で間違いないようですね」


「あら素っ気無い。異国の英霊はんみたいやけど、おしゃべりしてくれる気ぃはないみたいやねぇ。うち寂しいわあ」


「貴女の方はその衣装から察するに、この国の反英霊というところでしょうか。英霊として、一人の騎士として、見逃すわけにはいきません──ここで、屠ります。構いませんね? マスター」


「ええ、アーチャー。全力でいきなさい」


 自らがマスターと呼んだ少女の声に応え、赤い髪の弓兵は目を伏せたまま、しかし確かな怒気を孕んで弓を構え、そして矢を放った。


「──あら」


 目を丸くしたアサシンの身体から、鮮血が飛ぶ。

 そのアーチャーの放つ矢は、普遍的な弓矢のそれとは一線を画す。


「ふうん、変わった弓取りもおったもんやねえ。風情があって、嫌いやないけど」


 旋律と共に放たれるのは、真空の刃。

 通常の弓では考えられない速度と速射性で、不可視の矢が四方八方から襲いかかった。

 初撃こそ切創をその身に刻んだアサシンだったが、それでも追撃はヒラヒラと身を躱し、最小限のダメージに抑えていく。


「あら、こらあかんわ。お嬢、すぐにあの弓兵はんから離れな、死ぬで」


「それは困るな。さっさと逃げよう」


 アサシンからの忠告を受けて刀を鞘に納め、回れ右をして逃走を図るアサシンのマスター。


「させるかっ! 散々暴れておいて簡単に逃げられるとでも──」


「そらこっちのセリフや」


「──っ!? これ、はっ」


 自らのマスターの背を追おうとしたアーチャーのマスターの動きを、アサシンは視線一つで縫い止めた。

 思考に靄がかかり判断力が失われていくその感覚を、アーチャーのマスターは魔術師としての知識で知っている。


『これっ、魅力(チャーム)…………視線だけで!? 魔眼持ちだったの!? いや、単純な魅力とも、何か感触が…………』


「マスター!」


 アーチャーの奏でた音律がアサシンを追撃し、また自らのマスターの精神的な異常を取り除く。


「くっ…………」


「マスター、ご無事ですか」


「大丈夫、レジストしたわ…………あんたの演奏もあるしね。これであのアサシンの手口がわかった…………魅力の魔術とはちょっと違う感触だったけど、今回にしろそれ以前にしろ、あのアサシンが民間人の精神を操作してたってわけね…………となると、マスターは本当に素人ってことで良いのかしら」


「せやねえ。うちのお嬢は術や呪いの類はサッパリや」


「だから前々から民間人を襲って魂喰いをやってたってわけね。どっからどう見ても反英霊でなによりだわ」


「んー、それもあるけど、まあその辺は──享楽と実益、半々ってとこやなあ」


 かんらからと笑いながら告げるアサシンに対し、アーチャーとそのマスターは明確な敵意を示す。


「話にならないわね」


「同感です」


「あら、主従揃ってつれへんなあ」


 軽口を叩きながらアサシンは何処からともなく大剣を咥えさせた瓢箪を取り出し、振りかぶる。

 そして、凄惨な笑みを浮かべつつアーチャーへと踊りかかった。


「ほぉれ」


「!」


 その一撃をヒラリと躱すアーチャーだったが、その身には緊張が走っている。

 大剣による一撃は床を叩き割り、どころか美術館そのものを揺るがす程に重いものだったからだ。


「っ、アサシンの筋力じゃないでしょアレ──!」


「マスター、下がってください…………!」


 アーチャーは背後のマスターを案じながらも、目前の悪鬼を見据えて弦を弾く。


「んっ、と?」


 旋律と共に空を飛ぶのは弓から放たれた幾重もの弦。

 その糸は瞬時にアサシンの肢体を捉え、拘束してしまった。


「あら、そういうのがお好みなん?」


「断じて否です!」


 そんな会話を交わしながらもアーチャーはアサシンへと追撃の矢を放とうとするが──


「ほな、ウチも遠慮させてもらおか」


 瞬間、アサシンの身体から凄まじい熱波が放たれた。


「くっ…………! 魔力放出ですか」


「それも高ランクのものね…………!」


 弦の縛めを熱と怪力で灼き千切ろうとするアサシンを見て勝負どころと見たのか、アーチャーのマスターは即座に決断する。


「アーチャー、宝具よ! アレはここで一気に仕留めるべきだわ」


「同感です──我が弓の、切なる曲を!」


 高熱の中で躍動しようとするアサシンに対しさらなる弦による拘束を加え、伝説に名高きその騎士はその名弓の名を告げる。


「痛みを歌い、嘆きを奏でる…………【痛哭の幻奏(フェイルノート)】!」


 渾身の力で引き絞られ、そして放たれたそれはもはや矢とは言い難い威力の、いわば真空の徹甲弾。


「か」


 その一矢はアサシンの放つ熱波をも引き裂き散らし、そしてその喉元へと着弾、炸裂。

 鮮血を撒き散らしながら、その頭部が吹き飛び、宙を舞った。


「やった」


 勝利を確信し、思わず拳を握るアーチャーのマスター。

 だが、アーチャーの見開いたその目は宙を躍るアサシンの頭部から離されておらず──

 ──アサシンのその目と視線を合わせた瞬間、アーチャーは叫んだ。


「まだ終わっていません! マスター!」


「え──」


 アーチャーのその言葉が言い終わるかどうかの内に、中空のアサシンの顔に裂けたような笑みが浮かんだ。


「【千紫万紅・神便鬼毒】」


 頭上から響いたその真名と同時に、頭部を失ったままのアサシンの身体が動き出す。

 その手の中の巨大な瓢箪から溢れ出したのは──津波を思わせるほどの膨大な毒酒。


「マスター!」


「アーチャー…………っ!」


 響く両者の叫びをも呑み込み、毒酒の濁流は館内を押し流していく。


「──と、こんなもんかいな」


 瓢箪を構えた方とは逆の手に自らの頭部を乗せながら、アサシンは呟いた。


「あぁ痛かったわあ。こんなん一度味おうたら充分やっちゅうのになあ…………はよくっつけな」


 頭部を胴体に載せ、瓢箪からトクトクと酒を自らに浴びせる。


「霊魂いっぱい貯めといて良かったわあ。お嬢の魔力供給は雀の涙やからなあ」


 これまでに刈り取り、自らの宝具の中に囚えていた多くの命と魂をその身に浴びせ、傷を癒やすアサシン。

 スキルによって尋常ならざる生存力を誇る彼女だったが、首を撥ねられるのはそれなりの痛手であり、流石に魔力を補充しなくてはマズい。


「うん、これでええね──しかし…………まさか躱されるとは思わへんかったわあ。四天王の連中にも劣らん業前。ご立派ご立派」


 アサシンが見上げた天井には、アーチャーのマスターと生き残りの一般人の少年がアーチャーの弦によってぶら下がっていた。


「アーチャー! 無事っ!?」


「ええマスター…………令呪での緊急回避、感謝します…………飛沫を浴びる程度で住みました」


「っ、最悪…………っ!」


 天井から降り立ったマスターの言葉に応じるアーチャーの声色からは、隠せない苦悶が感じられる。


『よりにもよって毒の宝具…………! アーチャーの弱点をモロに突かれた! これじゃ令呪もほぼ無駄打ちだわ………』


 眼下の館内では戦闘で散らばっていた筈の備品等がグズグズに腐食して白煙を上げている。あの宝具は単なる洪水ではなく触れただけで容易く命を奪っていく死の波濤だったのだ。


「マスターはんとそこの坊(ぼん)を逃がす一瞬の間がなかったら令呪の回避も功を奏したかもしれへんのにねえ。ま、マスターがおらんサーヴァントにはどのみち先は無し。判断を間違うたとは言えへんけど」


 極限ともいえるこの状況の中でも笑みを溢すその悪鬼は、何処か雅ささえ感じさせる。それがアーチャーのマスターの心に寒気を齎した。

 絶体絶命と言っても良いこの局面で、どう動くか思案する──その最中に、白刃が煌めいた。


「なっ」


 アサシンの宝具による白煙の中から現れたアサシンのマスターが、アーチャーのマスターを狙って日本刀を振るわんとしていたのだ。


「舐めるな──!」


 それに反応したアーチャーのマスターは魔弾を放って応戦した。ただ魔力を凝縮して放つだけの魔術と呼ぶには極めて単工程(シンプル)な代物だが、戦闘手段としては申し分ない。

 それを。

 アサシンのマスターは、魔弾とその射手を諸共に斬り裂いた。


「な」


「マスター!」


 傷を負った自らのマスターを守るため矢を放とうとしたアーチャーだったが、それより早くアサシンの魔力放出による追撃が入る。


「お、のれ…………」


「あーもう、離れときなあて言うたのに。危なっかしいマスターやなあ」


 肩を竦めながらに言うアサシンの側へと後退してアサシンのマスターは応える。


「絶好の好機と見たのでね。斬るのに。トドメも刺したかったが、欲をかくとあのアーチャーに刻まれそうだった」


「ホンマやで、今のは間一髪や。まだその首繋がってんのは運が良かったからやで、まったく」


「そもそも君が手心を加えたからだろう? 君の宝具なら相手をこの美術館諸共吹き飛ばす、ないし溶かし尽くす事も出来た筈だ」


「いやまあ、そら出来るけども…………それやったらお嬢も死ぬやろ」


「…………おお、なるほど。うん。死ぬな。それは困る。死んだら斬れなくなってしまう」


「…………ホンマ、かなわんマスターやわあ」


 そんな主従のやり取りを目にしながら、アーチャーのマスターは刀疵を抑えつつ思考を巡らせる。


『魔弾を、斬った…………アサシンの言動とこうして見たところ、あのマスターが魔術を扱えるとは考えにくい…………なら、神秘を宿しているのは武器の方か…………あの刀、最低でも数百年ものの業物ってことかしら』


 荒くなる呼吸を整えながら、ただ考えることは止めない。


『傷はそれなりに深いけど、致命傷ってわけでもない…………刻印と治療魔術である程度はカバー出来る…………が、あのアサシンとアーチャーの相性は最悪。いえ、相性抜きでもあのアサシンは相当なものだわ。おそらくこの国、ジャパンの著名な反英霊なんでしょうけど…………シンペンキドクって言ってたわね…………ああクソ、もっと真面目にこの国について予習してくれば良かったわ。令呪は残り2画…………あと1画で逃げ切れる? 相手も令呪を使ってきたら条件はイーブン。何か一捻り入れないと無理ね』


 状況の打開法を脳内で模索し続ける、そんな中で──


「何で」


 酷く場違いな者の、声が響いた。


「何でこんなことするんだよ…………お前ら」


 唯一生き残った一般人。

 アーチャーの弦のお陰で幾度も死を逃れた少年が、アサシンとそのマスターを睨みながらそう問うた。


「…………ん? 私にか」


「お前らだよ」


「ふむ、では同じ人間として私が答えようか。さて、何故と問われると…………如何とも言い難いな。気紛れとも成り行きとも言えるが、流石にそう言うのは卑劣だろうというのはわかる。うん。やりたいからやっている…………というのが正確かと言えばそれも微妙だな。そこまで具体的な衝動があるかと言われれば首を捻らざるを得ない」


「これや。うちはどうせやるなら何事も愉しまな損やていつも言うとるんやけどねえ。お嬢はもっと笑ろうてもええと思うで」


「と、アサシンはこう言ってるし、それもまた真理なのだろうが…………あいにく快楽や遣り甲斐というものは私の中にはない。ただ、そうするのが自然だと感じている。それだけだ」


「…………自然? これが?」


 少年は床面に広がる、人体だったらしき液状のナニカを見下ろしながらそう呟く。


「ああいや、別に自らの行いを正当化しようというわけではないぞ。うん。社会倫理的に言って、私の行動が悪逆とされるものであるという自覚はある。だから、つまりだな


君は、私に、怒っていいのだと思うぞ」


「…………そうかよ」


 少年は、歯を噛み砕かんばかりに軋る。

 腹の底から震えがやってくる。

 恐怖もあるが、それ以上の熱がこんこんと込み上げてくる。


「だったら好き放題にブチ切れてやる、このイカレ女が!」


 その叫びと共に。

 閃光がその場を埋め尽くした。


「ちょっ…………嘘でしょ!?」


背後ではアーチャーのマスターが素っ頓狂な叫びを上げ。


「お」


「ふはっ…………大盤振る舞いやなあ」


 アサシンとそのマスターはどこか呑気な声で嗤う。

 ──気付けばその光の源で。

 青い髪を靡かせた少年が、立っていた。


「──ははっ。召喚早々、景気がいいなあ。こりゃあ当たりを引いたと思っていいのかね」


 鬼気迫る戦場の中、無邪気とも言える人懐こい笑みを浮かべて。


「サーヴァント、セイバー。生意気な遠吠えに応え、ここに参上した!」


 いずれ猛犬と呼ばれることとなる少年剣士が、戦場に舞い降りたのだった。


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