それは呪いのように

それは呪いのように


「見るな」と言われるとかえって人間はそれに興味を持ってしまうものだ。それは半神の身でもそうだ。「見てはならない」「見ない方がいい」そう言われれば見たくなるのが人の性だ。


ドラウパディーが紙の束を捲り楽しげに微笑む。螺鈿細工の施された上品な箱の中に入っていたそれを読む妻は楽しそうに笑ったり時に顔を顰めたりする。それが普通の読み物であるならばビーマも微笑ましい気持ちで妻を眺めていたに違いない。しかしあの紙の束は普通の紙の束ではない。あの紙の束の元の主はドゥリーヨダナ。幼い頃から折り合いが悪くずっと競い合い、最後に殺し合った宿痾の女が記したものだ。

あのクルの大戦でドゥリーヨダナを討ち取ったビーマは褒賞として彼女の宮殿と財産を譲り受けた。ビーマは宝石や書物なんかに興味はなかったので彼女の宝物庫の品はほとんど妻や弟に分け与えられた。ドラウパディーは宝石や服装品をいくつか持っていった。その中の一つにあの螺鈿細工の箱があったのだ。初めはドラウパディーもあの箱を宝石を入れる箱にでもしようとしていたようだが中の紙の束に気付き、それを読み始めてからは宝石よりも紙の束に夢中になっていた。

「なぁそんなに面白い事が書かれているのか?」

ビーマの問いにドラウパディーはどう答えるべきか迷い視線が宙を泳ぐ。そうして困ったように笑って言うのだ。

「貴方は決して読まない方が良いでしょうね」


読まない方がいい、これは私が譲り受けたものなので。ビーマが読みたいと言う度に妻はそうやってはぐらかす。ドゥリーヨダナの事だから俺の事を散々ボロクソにこきおろしてるのか?と問えば、秘密ですの一点張りだ。隠されればそれを明かしたくなる。半神とて人の性には抗えぬ。紙の束を食い入るように読む妻の後ろに忍び寄って紙を盗み見る。


妹婿になったジャヤドラタが今日も義姉上に贈り物をとやって来た。美しい髪飾りでつい見惚れていたら、あの不敬物がわし様の髪を救いとって口付けてきた。妹姫様もお美しいが義姉上様も天上の花のようでと言いながら鼻息荒く迫ってきたので近くにあった箒でボコボコにしてやった。妹を娶っておきながらその姉に粉かけるとかどういう神経しとるんだ彼奴は。しかし可愛い妹を寡婦にする訳にはいかないので半殺しで勘弁してやった。お前がここに居たならもっとボコボコにしてやったのであろうな?


頭の中が真っ赤になる心地だった。ジャヤドラタ、パーンダヴァの兄弟が狩りで家を留守にしている間にドラウパディーに迫った下衆野郎にしてドゥリーヨダナの愛する妹ドゥフシャラーの旦那。あいつ、義理の姉のドゥリーヨダナにまで粉かけてやがったのか。呆れる気持ちとお前如きがあの美しい髪に口付けたのかという不快感がこみ上げてきた。彼奴もキーチャカ宜しく折り畳んでやれば良かった。俺だって口付けたことなんてないのに。


いや今俺は何を。


湧き上がる気持ちに戦いて一方後ろへ後ずさる。棚にビーマの巨体がぶつかり物が落ちる。その音でドラウパディーがはっと振り返った。気の強い彼女は眉を吊り上げてきっとビーマを睨んだ。

「盗み見とはいい度胸ですね」

ビーマは頬をかきながら素直にすまないと謝った。ドラウパディーは溜息をつきながら言う。

「貴方が読んでもつまらないものですよ。言わばこれはドゥリーヨダナ王女の愚痴日記です。公務が面倒だとかあの国の宰相のセクハラがうざいとかそういう愚痴です。男の貴方にはきっと共感出来ないものですよ?」

だから読もうとするのはお止めなさい。ビーマを真っ直ぐ見すえる目は暗にそう言っていた。こうなってはビーマは下がるしかない。ドラウパディーにもう一度ビーマは謝罪をした。


それでも読むなと言われたら読みたくなるのだ。あの女の生きていた証。ビーマはドラウパディーの眠っている間に彼女の部屋からあの螺鈿の箱を盗み出した。箱を開き紙の束を手に取る。ビーマは自室に戻り寝台に腰掛けながら紙の束を読み始めた。


日記は誰かに対して語りかけるような形式で書かれていた。盲目の王の娘と揶揄されたこと、女の身の上故に投げつけられた心無い言葉。しかしそんな言葉に凹むでもなくあの女は好きで女に生まれた訳では無いわ!とコミカルに紙の上で狸爺共を罵っていた。いっそ痛快な程に。お前もそう思うだろ?と語りかける口調で記されたそれは成程確かに読み物としては面白いかもしれない。罵るだけに留まらず自分に舐めた態度をとっていたそいつらの弱みなんかも書き連ねているからやはりドゥリーヨダナという女は恐ろしい。ビーマは夢中で読み進めた。読み進める内にドゥリーヨダナが語りかけている人物の人物像も浮かび上がってくる。正義感が強く、そして少しデリカシーに欠ける人物でどうやらドゥリーヨダナは此奴が好きらしいということだ。強くてかっこいいだとか正しいだとかそういう言葉をよく使うからだ。隠しきれない憧れがそこにあった。


ジャヤドラタが懲りずにわし様を口説いてきた。歯の浮くような台詞がよくもまあポンポンと出るものだ。お前が誰かを口説くならどんなことを言うのだろうな?食い意地の張ったお前の事だから食べ物に例えそうだ。食っちまいそうなくらい愛してるとか言いそうで怖いな。でもお前はかっこいいからこんな台詞も様になるんだろうよ。腹の立つ。


ジャヤドラタがヘンテコな髪型になっていたので盛大に笑ってしまった。わし様以外にも粉かけた女がいてそれが既婚者だったからか夫に盛大に報復されたらしい。妹という嫁がいながら粉なんてかけるからそうなる。しかしまぁお前がやりそうな報復だな。


ヘンテコな髪型にしたのは俺だなとジャヤドラタをボコボコにした時を思い出す。どうやらドゥリーヨダナの好きな奴は俺と似た感性を持っているらしい。


久しぶりにお前を見た。やっぱり何処までもかっこよくてずるい。久しぶりに抱擁を交わした。幼い頃とは随分違っていてびっくりした。逞しくて熱い胸をしていた。まさか助けてくれるなんて思わなかった。どんなに貶められようとも強くて正しくてかっこいいお前のままだった。やっぱりお前はずるいな。ずるい。


ビーマはつい顔を顰めてしまった。ドゥリーヨダナは語りかけている人物と久方ぶりの再会をし、何か助けられたらしい。動揺しているのか字が震えている。なんとなく不快になって次の紙を読む。


カルナに国を捧げられた。贈り物のスケールとして大きすぎやしないか?と問えばお前から受けた恩から比べれば足りないくらいだと笑っていた。贈り物か、お前なら何をくれるんだろうな。国や宝石って言うより花を贈りそうだ。花とか贈りそうにない顔をしておきながらさらっと花を渡してきそうだ。そういうギャップがずるいと思う。そんなの好きになってしまうではないか。


読み進める事にあぁ、これは日記というより恋文のようだとビーマは思った。あの女でも恋をしていたのか。ビーマの知らぬ誰かを思うドゥリーヨダナの恋文。


ドゥフシャラーの所に息子が生まれた。甥っ子になる。弟妹が子宝に恵まれる度に考えてしまう。もしも立場が違っていたら誰かの妻になる道もあったのかもしれない。それならお前とがいいな。尽くしたがりのお前だからきっと子供も大事にしてくれる。でも唯一の妻にして欲しい。結婚権は一回きりだ。わし様嫉妬深いので。


ずる賢く卑怯な女はそこにいなかった。一途に恋する女がそこにいる。ビーマが初めて会った時のスヨーダナがそこにいた。仲睦まじく遊んだこともあった従姉妹のスヨーダナ。読まなければ良かったと思った。あの日毒を盛った際に死んでしまったと思っていたスヨーダナは確かにドゥリーヨダナの中で生きていたのだとまざまざと見せつけられている。そして彼女はビーマの知らない誰かに恋をしている。それがとても辛い。ビーマは日記の中の男に嫉妬していた。


誰なんだよ。お前がそんなに思ってる男は。


知りたくてひたすらに読み進める。狂おしい程の憧れと恋心に溢れたそれをひたすらに読み進める。最後の一枚、クルの大戦の前に書かれたであろう。その一枚を読み上げる。


遂に戦争になった。後悔はしてない。自分の守りたいもの、欲しいものの為に戦うのだから。だから迷いも憂いもここに置いていこうではないか。勝っても負けてもこの日記を書くのは終わりにする。さようなら、同じ日に生まれた私の宿痾 ビーマセーナ。


語りかけられていたのは俺だった。そうだこういう女だった。吐き気のする悪辣さと信じられない程の健気さが同居する女だった。女の愚かな健気さに形容し難い感情が込み上げてくる。どうしようもない気持ちになって紙の束を箱に戻そうと箱を再び開ける。箱の底にきらきらと輝く小さなリングと青いヴェールが入っていた。ビーマはそれを手に取り眺める。トゥリングだ。青いサファイアの嵌められた小さなトゥリング。ドゥフシャラーが結婚式ごっこをしたいとかで付き合わされた結婚式ごっこ。花婿役が俺で花嫁役が彼奴だった。妹に化粧を施され、トゥリングをつけヘナのタトゥーも入れて青いヴェールを着けた彼女と真似事の結婚式をした。あの時お前は青をパーンダヴァの色だと言って嫌がっていたのに。こんなものを大事に取っておいたのかお前は。


「だから読まない方が良いと言いましたのに。…卑怯な方だと思っていたのにそんな一面も内面に隠していたのね。読み進めるうちに捨てるに捨てられなくなってしまって。だってとても愛らしいんだもの…」


ドラウパディーがビーマの部屋に入ってくる。ビーマは何も答えることが出来なかった。ただ呆然としている。気持ちは分かる。日記の中の女は愛らしい恋する女だった。


「彼女の為を思うなら読まなかったことにして燃やしてあげるのが一番だったのでしょうけど…燃やすにはとても惜しくて…」


ドラウパディーは歩み寄り紙の束をそっと撫でた。王族の女特有の悩みも沢山綴られたそれは彼女にとって共感に溢れたものだったのだろう。何十年来の友人からの手紙でも撫でるかのようだった。

ビーマはドラウパディーの声がするのを遠くに聞く。死んだ後も忘れさせてくれないのか。お前の方が余程ずるい。ずるい女だと思った。

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