仲良くなりたい人

仲良くなりたい人

大将

静謐に満ちる弓道場にとん、と軽い音が響く。視線の先、少し離れた位置の的に放たれた矢が突き刺さっていた。

残心。暫し矢を放ったままの姿勢を保ってからゆっくりと居直る。深く息を吐いた後に、振り返ってそこにいる見学者の方を向く。


「いかがでしたか?」


「流石だな。参考になったよ」


微笑んで、少年は立ち上がる。弓に手をかけ射法八節の最初の一つ、足踏みに移る。

その光景を眺めながら、青木れいかは彼――品田拓海と出会った日のことを思い出していた。




れいかの通う学校、七色ヶ丘中学校には弓道場と弓道部がある。中学校で弓道部があるのは珍しく、全国的に見ても数が少ない。

そもそも弓道というもの自体が他の武道と比べると数が少ないのだから、部活動が少ないのも当然のことだろう。

そんな七色ヶ丘中学校の弓道部だが、実はこの弓道場は部活動以外にも使われている。それが地元の弓道クラブだ。

サッカーや野球等のクラブ活動において学校の施設を利用するのはよくある話。弓道クラブでもそれと同じことが起きていて、七色ヶ丘中学校の弓道場は地元の弓道クラブが利用している。

いや、していたという方が正しいか。使われていたのは事実であるが、今はそれもほとんどない。弓道を習わせたいという親は多く無いし、仮にいても部活動でやらせればいいからである。まだ中学校に入る前の小さな子供がどうしても弓道を習いたければ話は変わるだろうが、そんなことはそうそうない。

だから今となっては弓道場を利用するのは普通に部活動だけであった。

そんな事情が変わったのは大分前のこと。ある一人の少年が弓道に興味を持ち、巡り巡って七色ヶ丘中学校の弓道場を使うことになったのだ。

具体的には少年が仲間の兄を経由してその友人であるれいかの兄、淳之介に連絡。淳之介がその話を学校に通したという流れ。

元々はその流れから、淳之介が彼を指導していた。しかしある日少年が来る日であったのに、淳之介に急用が出来てしまった日があった。

勿論、延期という形でも良かったのだが。結果から言えばれいかが彼を見ることになったのである。

とはいえれいかも未だ道半ば。指導というよりは共に自主練に励んだと表現する方が正しい。

それが二人の出会いだった。以降も少年が弓道場に顔を出す時、たまに顔を合わせている。

今日もまた、そんな日の一つだった。




拓海の放った矢は的の右上の方へ飛んでいった。しかし彼は落胆を顔に出すこともなく、落ち着き払っている。

弓道に限らず、あらゆる武道で重要視されるのが『残心』である。一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えを意味する言葉だ。

故に例え的を外した悔しさがあろうと、拓海はそれを表に出さない。ゆっくりと弓を下ろして、それからその表情に悔しさを滲ませた。

彼が弓を習い始めてから長い時間が経っているわけではない。だから的に当てられないというのも無理のないことなのだが、彼は何とも悔しそうだった。

その悔しさこそが彼の向上心の表れなのだろう。素人だからと自分を甘やかすことはなく、しっかりと向き合うその様はれいかから見ても好感が持てる。


「……ふぅ」


細く息を吐いて二射目を構える拓海。れいかは何も口出しせずに彼を見守る。

彼が弓道を習い始めてからしばらくは型を習った。初めて弓道を習うならとりあえず弓を引きたい、という思いも少なからずあっただろう。少なくとも学校の後輩にはそういう人がいた。

別にそれが悪いこと、というわけではないが、素人が弓を引くのは危険である。故にしばらくは型を学ぶところから始まるのだ。

それがつまらなくて見学や仮入部の際に興味を失ってしまう人も多い。しかしれいかの知る限りでは、彼がそれを口にしたことは一度もなかった。

拓海は純粋に弓道に向き合っていたのだ。だからこそ、そろそろ彼にも成功という報酬を与えてあげたい。

弓道は――というより武道全般に言えることだが――ただ結果を求めるものではない。自分の心身と向き合い、鍛える為のもの。

だけど習ったことが実を結ぶ感覚は心身を鍛える為にも必須だ。拓海にもそろそろそんな努力の結実という褒美があっても良い頃だろう。

れいかの見つめる先で、拓海は弓を引いていた。手首ではなく肘で引く感じを意識した正しい型。

そして数秒。心身が一つになるタイミングを見計らう。鋭い双眸が的を見据え――矢が放たれる。

たん、と。

矢の先端が的を捉えた。中心からは外れているが、それでも捉えたことに変わりはない。すぐに喜んで、はしゃいでもおかしくない状況。

だが拓海は自身を律して残心をとった。ゆっくり時間をかけて、彼は弓を下ろし元の体勢に直る。

それから一瞬の間があって、拓海は右の拳を握りしめた。


「――っし!!」


習った全てを出して、初めて的を射抜いた感覚。それがどれだけ嬉しいのか、れいかはよく知っている。

無邪気に喜ぶ彼を年上ながら可愛らしいと優しく見つめて、少ししてから声をかけた。


「おめでとうございます、拓海さん」


「ああ、ありがとうれいか。お陰でやっと上手くいったぜ」


彼が弓を教わったのは主にれいかの兄、淳之介。その後、時折れいかとも交流するようになった。紛らわしいから兄妹共に名前で良いと言ったのはどれくらい前だったか。

未だに兄以外の年上の男性から名前で呼び捨てられるのは慣れない。何となく、胸の奥が跳ねるような、そんな甘い衝動がある。

だけどそれは表に出すことなく、れいかは本心で返す。


「拓海さんの努力の成果です。私に出来たことなんてほんの少しですよ」


「そのほんの少しがあったから上手くいったんだよ。だかられいかのお陰でもあるんだって」


そう言い切られてしまうと返す言葉は無い。誤魔化すように矢を取って、自分もまた一つ射ることにした。

拓海はれいかの一挙手一投足をつぶさに観察する。『学ぶ』は『真似ぶ』つまり模倣が起点にある。れいかの所作の理解と真似は拓海にとっての勉強だ。

ざわめく心を静めて、落ち着いた心で矢を放つ。

命中。れいかの一通りを見終えてから拓海は再び矢を番える。矢を射るペースは個々で違う。

だからそれからしばらくは言葉少なに矢を射る時間となった。一つ命中させたことで何か得るものがあったらしく、それから拓海は何度か的を捉えていた。コツのようなものを掴んだのかもしれない。

最終的に今日の拓海は四本も的に命中させていた。これまでを思うと素晴らしい上達である。

今日の活動は終わりの時間を迎え、二人は掃除を始める。心技体を磨く武道において掃除も立派な鍛錬の時間だ。手を抜くことは一切なく、淡々と作業を終わらせる。

それから着替えを済ませて、二人は弓道場へ一礼。これで本当に今日のクラブ活動は終わりとなる。

なのでここで解散しても問題ないのだが、拓海は当たり前のようにれいかの横に並んだ。まだそんなに回数を重ねているわけではないけれど、お互いに用事がないのなら彼女を家まで送り届けるのが定番となっている。

自然な流れで車道側に立った拓海。れいかもそのことには気付いているが、しかし何も言わない。彼の気遣いを受け止めながら二人で歩き出す。

普段の二人の会話は何気ないものだ。しかし今日は拓海が初めて的を射るのに成功した日。せっかくなので今まで聞いたことのない質問をしてみることにした。


「拓海さんは何故弓道を習おうと思ったのですか?」


「んー……」


言い淀んで、視線を上げる拓海。言い難い事情があるのだろうか、と一瞬考える。

拓海は少し言葉を選ぶような沈黙の後に、れいかの質問に答える為に口を開いた。


「強くなりたいから、かな」


「……強く」


ここではないどこか遠い場所を見据えながら、拓海は右の手を伸ばす。何かを掴もうとする動き。


「心身共にしっかり鍛えて、いざって時に立ち止まったり迷ったりしなくて良いようになりたいんだ」


ぎゅっと拳を握る拓海。彼の目にはその『いざって時』が見えているのだろうか。

少なくともれいかには分からない。

だけど青い瞳で真っ直ぐに前を見つめる彼の顔は、見惚れてしまうくらいに力強く、そして凛々しい。


「れいかはどうなんだ?」


だからこちらに話を振られた時、咄嗟に反応出来なかった。

何とか平静を取り繕って、れいかは当時を思い出す。


「私は……最初はお兄様の真似がしたかったんだと思います」


ある日たまたま目撃した兄の道着姿。弓を構える様が幼心に格好良く映ったのは今でもはっきりと覚えている。

それで自分もやってみたいと頼んで、小さな道着に身を包んだのだ。

きっかけはそんなこと。だけど始めた理由ではなく続けた理由はきっとまた別の話。


「今も続けているのは、多分性に合っているからです」


静かな道場。意識を研ぎ澄ませ集中する感覚。狙い通りに射抜けた時の高揚感。

そういった全てが、自分には合っていた。


「なるほどな。確かに、れいかの集中力は凄いもんな」


「そう、でしょうか?」


自分の集中力が秀でているかどうかなんて、自分では理解し難い話だ。

だから小首を傾げるれいかだが、拓海は重ねて言う。

まるで口説いているかのような言葉を、真剣な表情で。


「ああ。真面目で真っ直ぐで、惚れ惚れするくらい綺麗だっていつも思ってるよ」


顔が赤らむのを理解したれいかは努めて前だけを見る。道場では何があろうと心揺さぶられることなく集中出来るのに、外では中々上手くいかない。

そうしていると何となくやられっぱなしも悔しくなってきた。なのでカウンターを試みる。


「……拓海さんも、格好良いと思いますよ」


「そうか?本当にそうなら、綺麗なお手本が近くにいるからだろうな」


試みたカウンターには更なるカウンターがやって来た。どうやら今のれいかでは彼を照れさせることすら出来ないらしい。

勝てない戦いなら無理に挑まないのも手である。反撃は諦めて、大人しく彼の言葉を受け止めることにした。


「……?」


「どうかしたか?」


「いえ……今、何か気配がしたような……」


視線を流すがそちらには何も見えない。気の所為、だろう。確認しに行ってもいいがれいかの家とは方向がズレている。となるとその分拓海を歩かせてしまうことになるので、結局勘違いだと思い込むことにした。

歩くことしばらく、れいかの家が見えてくる。

その玄関前で拓海との時間は終わり。それがいつもの流れだった。


「お疲れ様。また今度な」


だからいつものように拓海は軽く手を上げて、れいかに別れの言葉を告げる。


「――っ」


「……れいか?」


引き止めたいと思う心があった。

迷惑をかけられないと思う心もあった。

拓海は良い人だ。少なくとも、れいかがもう少し一緒の時間を過ごしたいと思うくらいには。だけどそう思うのは結局ワガママでしかない。

拓海にだって用事はあるだろうし、なくても急に声をかけたら戸惑うだろう。

だから色々な言葉を飲み込んで、れいかはいつものように笑った。


「いえ、何でもありません」


「そうか?なら良いんだけど」


さようならを交わしあって、拓海は去っていく。手を振ってその姿を見送った後、その背中が見えなくなってから、れいかは扉に肩を預けて小さく呟いた。


「……意気地なし」


一緒にいたいとは思うけれど、それで迷惑をかけるのも怖い。これが普段の仲間達なら躊躇わずに誘えるのに。

もう一人の兄のような優しい男性。彼ともっと仲良くなるには、まだ時間がかかりそうだった。




「おはようございます」


翌日、月曜日。

教室に入ったれいかは驚いて目を見張った。仲間達が勢揃いしていたのである。勿論クラスが一緒なのだからみんながいることはおかしなことではないが、この時間に勢揃いは珍しい。

自分が預かり知らぬところで何かあったのだろうか、なんて考えつつもとりあえず席に着くことにした。


「れいかちゃん!」


着席するかどうか、くらいのタイミングでみゆきの声。

顔を上げるといつの間にか仲間達に取り囲まれている。本当に、何があったというのか。


「昨日一緒に歩いてた男の人って誰!?」


昨日。それなら考えるまでもなく拓海だろう。そういえば彼女達には拓海のことは説明していなかった。

そう思い至るのと昨日の気配の正体に気付いたのは同時。みゆきだけか、他にも誰かいたのかまでは分からないけれど。

良い機会だからと口を開きかけたれいかだが、それより早くあかねが言葉を紡ぐ。


「まさかとは思うねんけど――彼氏か?」


一瞬、完全に頭が真っ白になった。あかねの紡いだ言葉を理解するのに数秒かかって、それから慌てて否定する。

が。


「違います!拓海さんとはそのような関係ではありません!」


勢い良く、そして致命的にれいかは言葉を間違えた。 


「れいかちゃん、名前で呼んでるんだ……!!」


「――っ!?」


やよいの言葉で自身のミスに気付く。

恋人疑惑で盛り上がっているところに発覚する名前呼び。それは火に油を注ぐかの如く、一瞬でみんなを燃え上がらせてしまう。

何せ普段の彼女は男子生徒を名前で呼んだりしない。ということは必然的に、『拓海さん』とはそれ程親しい相手だということになる。

れいかの大声に仲間達だけじゃなくクラス全体がざわつき始める。


「青木さんに恋人だって!」


「嘘だ……」


「拓海『さん』ってことは年上かなぁ?」


教室のそこかしこから聞こえる様々な声。興奮した声もあれば失意の声も、純粋な興味の声もある。

今や教室のほぼ全ての関心がれいかに寄せられていた。

みんなを代表するかのように、なおがれいかの肩を叩きながら言う。


「いや、驚いたよ。まさかれいかに恋人なんてね」


「違います!!拓海さんとは別にそのような関係ではありません!!」


「そうなの?」


「そうです!!」


声高に否定すると少しずつ教室の空気も落ち着いていく。

これなら大丈夫。何とか誤解は解ける筈。

そう考えていたところにみゆきから質問が飛んできた。その質問はれいかの胸の奥、深い所に突き刺さる。


「じゃあ、れいかちゃんはその人と恋人になりたいわけじゃないの?」


拓海と恋人になる。

飛んできた質問からついその可能性を考えてしまう。

もし恋人になったらどうするのだろう。どうなるのだろう。

例えば昨日、二人で並んで歩いていたわけだが。もし恋人だったら指を絡めたり、手を握り合ったり、腕を組んだりするのだろうか。

もしかしたら別れ際にキス、なんてことも――


「〜〜〜〜〜〜!!」


そこまで考えて、れいかの顔が真っ赤に染まった。そのリアクションはどんな言葉よりも雄弁に彼女が考えた内容を物語る。

彼女の仲間達は顔を見合わせて笑顔を浮かべた。何も知らなければにっこりと愛らしい笑顔に見えたことだろう。だけど今のれいかには悪魔のような笑顔にしか見えない。

――朝のHRまで後数十分。追求を躱しきるのは、随分と難しそうである。

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