仲正イチカと先生

 仲正イチカと先生



 仲正イチカの添い寝

 

昼下がり。書類仕事を溜め過ぎたことにユウカの堪忍袋の緒が音を立てて千切れ飛ぶ。

 事務机の上でまくし立てるユウカはとうとう怒りが頂点に達したのかドスンドスンとその場で四股を踏み始め、回数が六回目になったところで哀れ机は粉砕されてしまった。

 流石に危険を感じた私が部屋を急いで出ると数秒後、信じがたい轟音と共に壁が崩壊し吹っ飛ぶ。

 逃げながらも思わず振り返ると、四股を踏む体勢…尻を突き出して両足をついた状態…のユウカが後ろを向いてそのままの姿勢でジャンプしながら追いかけてくる。

 必死に走るも後ろでユウカが跳んで着地する度に響くドン!ドン!という音は無慈悲に近づき、廊下を曲がろうとしたところで強烈なヒップアタックを食らい壁にめり込んだ。

 「せーんーせーいー?今日という今日は逃がしませんからね?」

 こちらに尻を向けたまま、数十センチの長さに伸びた舌だけを又からくぐらせて顔に這わせてくる。

 初めは頬、そして耳、次いで側頭部に到達して─────

 "はっ………!?"

 「あ、起きたっす?」

 目を覚ました私の前にいたのはユウカ…ではなく、こちらに手を伸ばしているイチカ。夢の中で舌が触れていた部分は彼女が手を添えていたようだ。

 「大丈夫っすか?なんか…書類がどうとか、うなされてたっすけど…」

 "ああ…ちょっと書類仕事が溜まっててね…"

 「? 今日は書類仕事はないって聞いてましたけど…」

 "……?……あっ!そうだった!昨日で一旦落ち着いたんだっけ"

 "ごめんね、寝ぼけてたみたいだ"

 話している内にモヤがかかったような頭が段々とはっきりしてくる。

 "じゃあ今日は書類仕事も無いことだし、外回りにでも行こうか"

 しかし、その提案に対する返答は微妙なものだった。

 「うーん…そうっすねー…」

 こちらを見ながら緩く握った手を上唇の辺りに当て、何事かを考え込むイチカ。

 「よし、決めたっす!」

 "決めたって…何を?"

 「今日やること…やりたいことっす!」

 "よくわからないけど…良いよ"

 "それがイチカのしたいことなら"

 「じゃ、決まりっすね!よいしょっ…と」

 そう言うとイチカはおもむろに座っていた私を担いだ。

 "…へ?"

 "ちょっと?どうしたの!?"

 「どうって…わたしのやりたいことをやるだけっすよ?」

 会話をしながらもイチカは歩き…

 「さ、到着っす!」

 ほんの十数秒後。目的地へと着き、俵のような雑な抱え方とは一転、そっ…と丁寧に仮眠室のベッドの上に寝かされる。

 "これって…"

 「そう、先生。…わたしと一緒に、今日は休むっす!」

 そう言うとイチカはぽす、と私の隣に寝転んだ。

 "いや、でもこれは…私はソファでいいから"

 「そんなこと言って、目の下の隈がヒドいっすよ?」

 "でも、仕事しなきゃ…"

 「あ、こら。ダメっすよ」

 ベッドから起き上がるとすぐに後ろからがっちり抱きつかれて引き倒される。

 "イチカ、離し…"

 「ふぅ─────っ」

 "わぁっ!?"

 制止しようとすると耳に息を吹きかけられた。

 "ちょっと…ぁっ"

 "行かないと…ぅ"

 "し…ぅあ"

 後ろから抱きつかれたまま声を出そうとするが、耳に生温い吐息が吹きかけられて力が抜ける。

 息だけではない。成熟しきってはいないとはいえ、柔らかい少女の躰の感触が。ほんのりと柔軟剤の混じるイチカの匂いが理性を溶かしてゆく。

 "でも…んっ!?"

 それでもなお喋ろうとすると口を塞がれた。せめてもの抵抗をしようと少し身をよじるとそのたびに耳に吐息を吹き付けられる。

 「んー…中々強情っすねー…」

 「なら…こうするっす」

 ぬるっ、と。耳に舌を入れられた。口を塞がれてろくに話すこともできないままぐちゅ、ぐちゅ、と水音を立てて熱く、厚い肉に耳孔をひたすら蹂躙される。

 二人きりの部屋に、荒い息と衣擦れの音だけが小さく響く。

 そんな時間がどれだけ続いただろうか。

 数十秒だった気もするし、数時間こうされていたような気もする。

 ぷは、と満足したのかイチカが耳から口を離し、口を抑えていた手を頬に添えてくる。

 「…わたしのやりたいことは、先生と一緒に休むことっす」

 「先生は、今日は何がしたいっすか?」

 耳元でイチカが囁く。

 「ほら先生、言わなきゃわかんないっすよ」

 「何がしたいっすか?……何を、されたいっすか?」

 ここで仕事と答えたら、また同じ事をするのだろう。いつもより大きく開いた眼は、間違いなくそう語っていた。しかし私にはもはやそんなことなど頭に無かった。

 "い、イチカと一緒に…休み、たい…"

 「はい、よくできました」

 スカートのポケットからハンカチを出したイチカは先程まで自身が舐めていた耳を拭く。唾液で冷えた耳には彼女の体温で温まったハンカチが少し心地良く感じる。

 「そういえば、心臓の音にはリラックス効果があるらしいっすよ」

 「試しにやってみるので…後で感想を聞かせて欲しいっす」

 そう言うとイチカは私の耳を自分の左胸に当てた。

 トク、トク…と聞こえる音は、確かに気分が落ち着くような気がした。と、同時に忘れていたはずの眠気が急に襲って来る。

 ウトウトとしていることを察したのか、イチカが私の目を手で覆う。

 黒い薄手の手袋は肌触りが良く、光を遮るのにちょうど良かった。

 「おやすみなさい、─────」

 彼女の羽に包まれると、私の意識は深い深い眠りの中に落ちて行った。




 幕間 仲正イチカの想い


 少々強引に先生を「説得」した後、胸の中でウトウトとし始めた先生の目を手で覆う。

 包むように羽を被せるのとほぼ同時に寝息を立て始めたのを確認して、呟く。

 「おやすみなさい、私の先生」

 きっと声は届いていないだろう。それに、羽で包まれるという事の持つ意味も。だけどその方が良い。少なくとも今は、まだ。

 トリニティにおいて、羽とはその生徒にとって自身を象徴する大事な部位の一つでもあり、身体的な意味合い以外においても非常に扱いはデリケートだ。

 たとえ友人同士であっても気軽に触れることは無く、特に親しい間柄でも無いのに故意に触れようものなら最悪の場合撃たれても文句は言えない。

 もはや無礼を通り越して相手を軽んじているという侮辱として受け取られかねないからだ。

 そして、そんな羽を使った行為は非常に重要な意味合いを持つ。

 例えば、自身の羽根の一部を使った物を贈るのは求愛を意味していたり。

 例えば、羽の手入れを任せるのは全幅の信頼を意味していたり。

 例えば、羽で相手を包むのは最大限の愛情を意味していたり。

 それらをされた時に、受け入れるという事は当然─────。

 目の上に乗せていた手をどける。相変わらずひどい隈だ。私だけでなく、他の生徒の為にも連日のように駆けずり回っているのだろう。

 無防備に閉じられた目を見ていると愛しさと嫉妬がこみ上げてきて、気がつけば口づけをしていた。

 唇同士を合わせるだけの、触れるような軽いキッス。寝息が上唇に当たってちょっとくすぐったい。今日は休んで欲しいから、と自分に言い聞かせてそれ以上のことはせずに数秒で離れる。

 ついさっき耳をねぶり回していたくせに、随分と初々しい真似をする自分に苦笑しながら、先程とは反対に自分の耳を先生の左胸に当てる。

 トクン…トクン、と。眠っているせいか鼓動は少しゆっくりに感じる。

 提案しておきながら自分が試すのは初めてだけど、ああ、これは確かに…。

 先生の匂いと、命の音に包まれて私もまた、眠りの中へと落ちていった。




 仲正イチカと抜けた羽根


 近くで誰かが動いたような気配で少し目が覚める。微睡みの中からゆっくりと意識が浮上するのに合わせて目を開くとすでにイチカはいなかった。

 少し離れた場所でガチャ…と控え目な音が聞こえる。方向から察するにトイレに行ったのだろう。

 時計を見ると二時間ほど経っていた。

 十分とは言えない睡眠時間ではあるが休息を削り続けた身にはそれでもありがたく、かなり気分がすっきりとしている。

 軽く目をこすって伸びをすると、ふと胸の辺りにもぞもぞと動く多少の違和感。

 手を突っ込んでまさぐると、出てきたのは一枚の黒い羽根。おそらくイチカのものだ。一緒に寝ていた時に抜けた分が偶然入ったのだろう。

 以前、不注意で他の生徒の羽に触れてしまったことがある。拒絶こそはされなかったものの、顔を真っ赤にしてひどく恥ずかしがっていた。

 きっと敏感な部分なのだろう。それ以降は極力羽の部分には触れないように気をつけてきたが、抜け落ちた物であれば特に問題は無い、はずだ。

 手に持って天井の照明に透かす。改めて見ても綺麗な羽根だ。黒く艶のあるそれは、文字通りに烏の濡羽色と言うのだろう。

 矯めつ眇めつ眺めているうちに水を流す音が聞こえ、数秒ほどするとイチカが戻ってきた。

 「あれ?先生、もう起きたんす、か…!?」

 部屋に入ってきたイチカが固まる。見れば顔を真っ赤…にはしていないものの、頬に朱が差している。

 「せ、先生。それは……」

 "あ、イチカ。おはよう…には、遅いかな?"

 "寝てるときに服に入ったみたいなんだ"

 "綺麗な羽根だね"

 しかし眉をハの字にした彼女が口にしたのは衝撃の一言。

 「先生、それ…セクハラっすよ」

 "………へ?"

 今度は私が固まる番だった。

 「直接ではないとはいえ、勝手に羽根を触るだなんて…」

 「トリニティでは撃たれてもおかしくないマナー違反っす」

 「私、先生を信じてたのに…」

 口を押さえて後ずさるイチカ。

 "ご、ごめん"

 "そんなに大変な事だとは知らなかった"

 "できることなら何でもするから……!"

 傷つけてしまったであろう手前、許してほしい、などとは言えないままどうにか弁解しようとうろたえる私にイチカは

 「ぶふっ!」

 と、堪えきれないというように口を押さえたまま吹き出した。そしてそのまま腰を曲げてぷるぷると震えながら声を出さずに笑い続ける。

 "………イチカ?"

 「………っぷ。く、ひひ……はぁ」

 「冗談っすよ、先生」

 ひとしきり笑って落ち着いたのか、呼吸を整えてネタバラシをされる。

 "……ふぅ。いやあ、びっくりした…"

 いつも通りの彼女の笑顔にほっと胸を撫で下ろす。

 「いくらでも触ってもらって大丈夫っす。ほら。ほらほら」

 "わぷっ…イ、イチカ、顔はちょっと…!"

 バサバサと茶化すように数度羽で顔を軽くはたかれた後、スッと羽が片方差し出された。

 「優しく、扱ってくださいね?」

 さっきとは打って変わって静かな時間が流れる。黒い羽を撫でたり、顔をうずめて匂いを嗅いでみたり。よく手入れが行き届いているのか、どの部分も手触りが良く、ホコリなども挟まっていない。

 堪能していると、思い出したようにイチカが口を開く。

 「そういえば先生。聞き間違いじゃなければさっき、何でもするって言ってなかったっすか?」

 "……私にできることなら、ね…"

 勢いで言ってしまったものの、男に二言は許されない。観念して肯定する。

 「ふ─────ん…」

 "お手柔らかに頼むよ…"

 こちらを見ながら考え込むように唸るイチカに、せめてもの慈悲を乞う。

 「じゃ、コレ。先生に塗って欲しいっす」

 そう言って彼女から渡されたのは、使い切りサイズの小袋だった。

 昔、母が似たような物を貰っているのを見たことがある。デパートやドラッグストアで時々ついてくるそれは、おそらく化粧品の試供品だろう。

 かなり崩した筆記体で少々読みづらいが、広告でよく見るロゴのすぐ下。一番大きく書かれている文字は、

 "フェザー、オイル…?"

 「はい、トリニティの淑女の嗜みっす!」

 ……説明によると、羽に塗る用のヘアオイルみたいなものらしい。トリニティの生徒の中には、イチカのように羽を持つ生徒も少なからず存在する。しかし、鳥のように尾脂腺までは無い彼女たちには手入れするのにこのようなアイテムが欠かせないのだという。

 「私達にもあったら便利なんすけどねー」

 冗談とも本気ともつかない声音でぼやくイチカ。

 "いつも持ち歩いてるの?"

 「や、普段使いのはバッグの中っす。これは新作の香りの試供品っすね」

 いつものやつについてきたんすよ、とちょっと嬉しそうに語りながらパックを空けて半分ほど手に取る。

 「先生は使ったこと無いっすよね?こっちは私がするので、もう片方をお願いするっす」

 イチカが塗るのを見ながら自分も残ったもう半分を手に取り、見よう見まねで塗り広げていく。

 先から中腹にかけて、向きを整えながらゆっくりと優しく丁寧に。

 慣れない分彼女より遅いが、ムラが無いようまんべんなく。

 そして付け根の辺りに差し掛かった所で、急にイチカが身じろぎした。

 「んっ……!」

 "っ!?"

 驚いて手を止め、確認を取る。

 "大丈夫?…痛かった?"

 「…大丈夫っす。根本のとこ、ちょっと敏感なだけなので」

 続けてください、と促されるままに再開。

 「他の人に…んっ。触られることがっ…は、ないのでぇ…っ、なんだ、あ、かっ、変な感じっ…ん、ふ。…っすね……ひゃ」

 手を動かす度に声を上げる彼女にこっちが変な気分になりそうなのをこらえて、手入れを続けた。あと少しで終わるのが、やけに長く感じる。

 "……………はい、終わったよ"

 最後まで塗り終えて、何の気なしに、軽い気持ちで、肩を叩くような感じにぽん、と。

 羽の付け根と背中の間辺りに手を置いた。

 置いてしまった。

 次の瞬間、

 「───────────────っ!」

 バッサァ!と羽を大きく広げると同時に身を震わせながら仰け反るイチカ。

 かと思えば、今度は上体を丸めて自身を包むように羽を動かす。

 「ハァ、ハァッ、フーッ!フーッ!」

 身体が震えており、息が荒い。誰か人を呼んだほうが良いだろう、と連絡を取ろうとしたその時。

 すっく、と唐突にイチカが立ち上がった。

 ほんのり顔が赤い気がするが、ほとんど息は整っており様子も普段通りだ。

 何故か自分の座っていた場所をぼうっと見つめている以外は。

 "……イチカ?"

 「っ!あ、先生。どうかしたっすか?」

 "イチカこそ、急にどうしたの?なんか凄い動きしてたけど…"

 「あ…あれはただの伸びっす。あー、手入れをした後はいつもやるんで。……ほら、ある程度大きく動かした方が馴染みますし、羽の向きとか」

 "そうなんだ?"

 「そーゆーことっす」

 "……"

 「……」

 僅かな沈黙。先にそれを破ったのはイチカの方だった。

 「…はい、先生。これ、お礼っす」

 "あ、これって…"

 さっき私が眺めていた羽根だ。

 "いいの?"

 「モチロンっす。しっかり手入れ、してもらったので…………っと、よし、よく似合ってるっすよ?」

 アクセサリーのように髪に差された。

 「じゃ、先生。ちょっと遅くなりましたけど、外回りに行きましょっか」

 "……え?これ差したまま?"

 「大丈夫。似合ってるっすよ」

 ……なら、良いのだろうか。若干の疑問を抱えたまま、私はイチカと外回りに出かけた。


 数時間後。

 外回りが終わり、当番のイチカとはそのまま外で解散することになった。

 「じゃあ先生、私はこの辺で。その羽根は好きに使ってもらっていいっすよ」

 "ありがとう。気をつけてね"

 「……あ、先生!」

 "? 何かあった?"

 帰ろうとして声をかけられ、振り向く。

 「…私は大丈夫っすけど、他の子の羽はちょっと気をつけた方が良いっす。中には本当に撃っちゃう娘も居るっすから。……色々と、デリケートな部分なので」

 "……肝に命じておくよ"

 そして私は帰路に付いた。

 こちらを見ながらひそひそと何かを話し、小さく歓声を上げる生徒たちに終ぞ気がつかないまま。




 幕間 仲正イチカの秘め事


 備品室。

 「はっ、はぁっ…」

 乙女の秘密の花園…と言うには少々、埃っぽさとカビの匂いが強すぎるけれど。

 「はぁ、はぁ、…ぁっ」

 滅多なことでは人が来ないという点においては。

 「あっ、はぁ、んっ…」

 やましい事や隠し事をするにはうってつけの場所だ。

 「─────っ……」

 例えば、どうしようもなく火照った身体を慰めるのに、帰り着くまで我慢できそうにない時とか。

 「はぁ…はぁ……ふぅ」

 体の芯が、お腹の奥が、羽の触ってもらった部分が熱い…熱くて堪らない。

 「んっ……」

 いくら人が来づらいとはいえ、全く出入りが無いわけではない。もしかすると誰かが来るかもしれない。それに、帰りが遅くなれば正義実現委員会の皆も心配するはずだ。

 「んっ、は、はぁっ…」

 それでも、滾る熱は収まらない。下に伸びる手を、秘部を弄る指の動きを止められない。

 「…っあ、んっ、ふぅっ、は…っ」

 ベッドの上で、羽を手入れしてもらった時の事を思い出す。

 先生は知らないだろう。羽の手入れを任せる意味を。そしてそれを受け入れる意味も。

 それでも私は幸せだった。想い人に自分の大切な部分を預けて、少し拙い…けれどとても丁寧で、優しい手つきで触れられて。

 性的な愛撫でもないのに、羽の外側から根本に手が移動するのにつれて、どんどん高まっていく。

 根本にとうとう手が触れた時は、思わず声が出てしまった。先生は思わず手を止めて、心配そうな声でこちらの様子を確認してくれる。その態度が、ますます私を昂らせるとも知らないで。

 そこからは私も必死だった。平静を装っているつもりでも全然声が我慢出来なくて、何気なく喋ろうとしても手が動く度に声が裏返った。

 そして手入れが終わった後に先生に手を…背中と羽の境目の、一番敏感な部分に…置かれて。私はとうとう…先生がいつも使っているベッドの上で、先生の目の前で…絶頂してしまった。

 危うく、粗相をするところだった。明らかに下着が濡れる感覚がした時は興奮冷めやらぬまま血の気が引いた。

 幸い、スカートを貫通してベッドに染みを作る事は回避出来たけど…あの動きを羽の手入れ後の伸びだと説明するのは我ながらいくらなんでも無理があったと思う。

 ともあれ、それ以上の追求は受けなかった私は更に大胆な行動に出てしまった。

 「自分を抑えるのは、得意な方だと思ってたんすけどね…」

 誰にともなく、独りごちる。

 お礼と称して髪に羽根を差して…そうと知らぬまま求愛の証を受け入れさせて…そしてそのまま、外回りまでした。

 送った羽根を装飾に使う事、それ自体は別に珍しいことではない。けれど、あんな目立つ形で、しかも誰の羽かを見せつけるように一緒に歩き回るなんて真似をしたのはトリニティの歴史の中でも私を含めたって数人しかいないだろう。

 周りから向けられた嫉妬と羨望の入り混じった視線はきっと一生忘れることはない。この人は、「私の先生」だ、と示すあの快感も。

 けれど。それでも。「私の」先生は。

 「先生は…『私だけの』先生にはきっと、なってくれない…」

 私と一緒にいる時でも、私以外の生徒の事も常に気にかけていて。きっと他の生徒といる時だって、同じ様に私の事も気にかけてくれているのだろう。「皆の」先生として、皆のことを大切な生徒として。

 身体を丸めて、自分の羽に顔をうずめる。ありもしない先生の残り香を求めて、あの匂いを少しでも想起したくて。唇をつける。あの時先生が顔をうずめた部分に重ねるように。

 「でも、あの羽根を着けている時だけは…その時だけは、『私の』、『私だけの』先生でいてほしかった…」

 ぽた、ぽた…と、雫が落ちた。股から垂れて床を汚す汁とは別に、目頭から頬を伝って流れたそれは、黒い制服の胸元に分かりづらい染みを作る。

 …その日、私が自分を「慰め」終わったのは日が落ちてからのことだった。




仲正イチカの先生


数日後。歩いていると、バサバサという音と共に横から弱々しい声がかかった。 

「あ…せんせぇ〜。助けてくださぁ〜い」

"大丈夫?なにかあったの?"

「羽になにかが絡まっちゃったんですけど…位置的に自分じゃ取れなくって…」

見ると、ちょうど腕が届きそうにない所に枝が挟まっていた。バササッ!と目の前で大きく羽ばたくも周囲の羽根が余計に引っかかるばかりで一向に取れる気配は無い。異物がある違和感からか身をよじっては時おりぴくつくのが気の毒で取ってあげよう…と手を伸ばしたが、ふと以前イチカに言われた事を思い出した。

(不用意に触ったりすると撃たれるかもしれない、か…)

取ってほしいとは言われたものの、もしもの事を考えると触れるのは避けた方が良いかもしれない。念の為確認は取っておこう。

"えっと…道具か何かはあるかな?"

「今日はたまたま手入れ用の道具を置いて来ちゃって…で、でも…せんせぇなら…大丈夫ですから…っ!」

"そっか。……直接触ることになっちゃうんだけど、本当に大丈夫?"

「はっ、早くぅ!お願いします…気持ち悪いから取ってぇ…!」

羽に絡まった枝を手でつまむと、さっきまでいくら動いても落ちそうになかった筈の枝はスッ…とあっさり抜けた。が、抜けたのは枝だけではなかった。

"…ごめん、羽根もついて来ちゃった"

"痛くなかった?"

「だ、大丈夫です!たぶん元から抜けてたやつだと思うので!」

"じゃ、はい"

ポケットに入れる訳にもいかないので枝は適当に放って取れた羽根を渡す。

「あ、はい。どう…も……」

しかし、手を出して受け取ろうとした所で生徒の動きが止まり、何かを考えるような、緊張した面持ちになる。

"どうかした?"

「えっ…と」

「やっぱりその羽根、先生にあげます!」

"……え?良いの?"

先日のイチカと言い、羽をプレゼントするのが流行っているのだろうか。生徒同士でやり取りしているのは見たことが無いが…。

「は、はい!もちろん良いですよ!全然、気にしなくていいですから!たっただのお礼なので!割とよくあることですし!?」

急によく喋るようになった生徒に首を傾げながらも取り敢えず潰れにくいように羽根を胸ポケットに運ぼうとした瞬間、後ろから聞き覚えのある声がかかった。

「先生……?」

「ひゃっ!」

"あ、イ、チカ……?"

挨拶をしようと思ったが、いつもと雰囲気が少し違う気がする。表情も、声色も、動きも普段と別に変わらないはずなのに。

「……『それ』、何っすか?」

"……それって?"

「手に持ってる『それ』っす」

「あっ、あの…っ」

"ああ、これね。この子の羽根だよ。羽に枝が絡まっちゃってたから。取ったらお礼にってくれたんだ"

「……ふ─────ん」

「…そっすか。……ところで先生、羽について前に言ったこと、覚えてるっすよね?」

"うん、もちろん"

"お願いされたから取ったし、その時はちゃんと触っていいか確認したよ"

「確か私は他のコの羽は触らないように言ったはずっす」

"……そこまでは"

「言ったっす」

「……け、けど」

「あー、これは現行犯っすね。トリニティの治安を守る立場として見過ごせないっす」

がしっ、と。しっかり腕を組まれる。流石は正義実現委員会。その中でも頼りにされている一人なだけあってまるで抵抗できない。

"ま、待って!"

「はーい言い訳は署で聞くっすよー、なんちゃって。……あ、そうだ。この羽根はお返ししておくっす」

「あっ……」

羽根を受け取った生徒が少し俯き、口をキュッと引き結ぶ。

「あんまり軽々しく渡すもんじゃないっすよ。意味は知ってるでしょう?」

「でも、アタシは本気で…っ!」

「わかってるっすよ…私もそうだったんで」

"ふたりともどうし……わっ!?"

「それじゃ、連行するっすよ。先生」

意味深な会話を続ける二人に聞き返そうとするも、腕を組まれたままではろくに身動きも取れずにそのまま私はイチカに連れて行かれてしまうのだった。


しばらく歩いた後、あることに気付く。

どうも方角がおかしい。今歩いている先には正義実現委員会も、ヴァルキューレもないはずだ。

"ねえ、イチカ"

"これってどこに向かってるの?"

「あ、やっぱりバレちゃってたっすか?」

「実は、連行するのはただの建前っす。本当は別の用事で来てもらいたくて」

"そう言って貰えれば普通に行ったのに…"

「あははっ!ま、たまにはこんなのもいいじゃないっすか」

楽しげに会話している、はずだ。しかし、どうにもさっき会った時から感じる違和感が拭えない。イチカは自分を律するのが得意な生徒だ。今は表面上いつもと変わらず振る舞っているが、騒いで混乱を生じさせるのを避けているだけで、もしかしたら何か大変な事に巻き込まれているのかもしれない。

もしそうなら、大人である私の出番だ。先生として、生徒が迷わないよう導かなければならない。そう思った私は、気を引き締めることにした。

「先生、着いたっすよ。用事があるのはここっす」

そんなことを考えていると、目的地に到着したようだ。擦り切れかけた文字で書かれているその場所の名前は。

"備品、室…?"

普段は放置されている部屋特有の匂いを感じながらざっと部屋を見渡すが、特におかしな物は見当たらない。

「そっちじゃないっすね。ほら、あっちの方…もう少し奥の…そう、その辺りっす」

"……?"

イチカが指差す方へ向かうものの、やはりそこにあるのは薄く埃を被った備品だけだ。

首を傾げていると、カシャンッ…と、後ろから部屋の内鍵を掛ける音が聞こえた。

「これでよし、と…」

"イチカ?どうして鍵を…"

かけたの、まで言うことはできなかった。振り返るとすぐ近くに…そう、余りに近くにイチカが迫っていたから。ほんの数十センチ、鍵をかけた直後とは思えないほどの至近距離に、彼女は居た。

そして言葉に詰まる私にイチカはボソリと一言、

「ごめんなさい…」

と呟き、私を押し倒した。

目の前の景色がイチカを除いて一気に下へと流れる。衝撃と痛みに備えて体を強張らせる私を待っていたのは、ぼすっ…という間抜けな音と柔らかい感触。倒れた先にあったのは備品の一つであるエバーマットだった。怪我をしないよう配慮してくれたのだろう。

顔の周りを長い髪が覆う。垂れ幕のように落ちるそれは、他に目を向けることを許さないとでも言うように周囲の景色を遮断する。髪の持ち主であるイチカと目が合う。いつもより開かれたグレーの眼を見て、ようやく違和感の正体がわかった。

同じ眼だ。ゲヘナ行きの列車に乗り、鬼怒川カスミに良いようにされた末に爆発したあの時と。

そう思った次の瞬間。イチカは私に口づけをしていた。

"っ!?"

動揺した数瞬の間に唇を割り、歯を押し退け、イチカの舌が入って来る。

まるで別の生き物かのように口腔内を這い回るそれは、歯列をなぞり、舌を絡め取り、好き放題に粘膜を蹂躙していく。

"───っ!─────!"

荒い鼻息が上唇にぶつかり、唾液がグジュグジュと混ざり合う音が口を通して脳に響く。唾を注がれて飲まされた。今度は掻き集めるように舌が動いて啜られる。それを何度も繰り返す。

「……ぷはっ」

たっぷりと数十秒、貪るような捕食行為…もといキスを堪能して、ようやくイチカは口を離した。

開いたままの眼でこちらを見据えて、軽く舌舐めずりをしてから喋り始める。

「……先生。トリニティでは、羽を使った行為には特別な意味が宿ることを知ってるっすか?」

「きっと、知りませんよね。だから、私が教えてあげるっす」

「羽で相手を包むのは、相手へ向ける最大限の愛情」

…心当たりがある。シャーレの当番の日、仮眠を取る直前にイチカは羽で私を包み込むようにしていた。

「羽の手入れを任せるのは、相手への全幅の信頼を。」

仮眠から起きた後、紆余曲折の末にオイルを塗る手伝いをしたことを思い出す。

「…そして。羽根を送る意味は……んっ」

私を押さえていた手を片方外し、自分の羽を軽く梳いて一枚取る。

「求愛……っす」

取った羽を私の髪に差す。手入れの後、外回りに行く時に付けていたのと同じ場所に。

「それを受け入れたということは…もう後は言わなくってもわかるっすよね」

「他の子の羽に触ると撃たれるかもしれないから気をつけた方が良い」

「ごめんなさい。あれ、半分嘘っす」

「他の人ならともかく、先生に触られて嫌がる子は…多分いないっすから」

ぽたっ。と、温かい雫が頬に落ちる。

イチカは……泣いていた。

「わかってたっす…何も知らない先生にこんなことをしたって、それを見せつけたって私のものにはならないって」

「先生は、皆のことをいつもしっかり考えてくれていて…その皆の中には私も入ってて」

「私も…皆のうちの一人でしかないのに、それでもこんなに良くしてくれて」

「でも…それでも。この羽を付けている間だけは、私の…私だけの先生にしたかったっす」

ぽたり、ぽたりと止め処なく零れる涙が私の顔も濡らしていく。いつの間にか私を押さえていは腕は外れ、抱きついたイチカは胸に顔をうずめて嗚咽を漏らしていた。

さっきの私を食い散らかさんばかりの雰囲気は何処へやら、自分の抱える想いを抑え切れずに押し潰されそうな少女がそこにいた。

凍えるように小さく震え続ける彼女を抱き締めると一瞬だけびくりと身体を強張らせて反応する。そのまま私はぽん、ぽん、とあやすように優しく背を叩き続けた。

数分後。落ち着いたイチカが口を開く。

「…先生、その羽根をつけている間だけは、私のものになってくれないっすか?」

"それは…難しいな"

「やっぱり、そうっすよね。じゃ、別のお願いならいいっすか?」

"…私にできることならね"

「なら、簡単っす」

ガバッ…!と、再び押し倒された。何か間違えてしまったような、そんな気がする。

「ま、こうなったからには……さっきのだけで終わるのもアレなんで」

「……二人で地獄に行くっすよ」

"…お、お手柔らかに頼むよ……"


その後。「謎の呻き声がする」という噂ですっかり人が寄り付かなくなった備品室を密会の場として度々使うようになったのは、また別のお話。

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