2024年3月2日土曜日

消えゆく帝国:妄想めいた支援キャンペーンとウクライナで「死か覇権か」の難問に見舞われたNATO

 

ウクライナにおける米国の対ロ代理戦争は過去10年間にわたって米CIAによって行われてきたと、最近、ニューヨークタイムズ(NYT)が報じた(原典:NYTs Report: CIA OPS in Ukraine for a Decade: By John Leake, Feb/26/2024。これを受けて、このような報道をNYTが流したということは米国がウクライナから足を洗いたいと言っている兆候であると米国の元諜報専門家が解説している。

このことは歴史的にも重要な節目となるであろうから、関連情報を記録として残したいと思う。

ここに、『消えゆく帝国:妄想めいた支援キャンペーンとウクライナで「死か覇権か」の難問に見舞われたNATO』と題された記事がある(注1)。

本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有しようと思う。

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Photo-1: By Gerry Nolan

地政学的に見るととんでもない瞬間にある今、ウラジーミル・プーチンと習近平は米国の力に挑戦したことを後悔するであろうと述べた米上院多数党の院内総務を務めるチャック・シューマーの宣言はまさに傲慢さの極致を指し示すだけではなく、欧米支配の黄昏さえをも示唆している。ウクライナとイスラエルに何十億ドルもの援助を注ぎ込むために、米上院が超党派で芝居がかった瞬間に結集し、その時のシューマーの言動は米国の決意の証としてではなく、むしろ、主張をすることさえもできなくなり、一極支配の秩序の痕跡に必死にしがみつこうとしている衰退の途上にある帝国のまさに最後のあがきとして響き渡った。

このようなスタンドプレーは世界中が画期的な変化の中で震え、世界の覇権という地殻プレートの構造がわれわれの足下で割れ、移動する時に現れる。表向きはロシアに対抗してウクライナを支援し、イスラエルを支援する。そのための驚異的な額の950億ドルもの「国家安全保障」予算の承認は強さの尺度というよりは、むしろ、それは米国の権力の殿堂に浸透している根深い不安の尺度でさえある。今展開している物語の核心はここにある。つまり、急速に進化する世界の大舞台で敵国も同盟国も同様にお互いの立場を再調整する中、かつては難攻不落であった超大国が自らの覇権が崩壊する現実に取り組もうとしているのである。

シューマーはNATOの同盟国と敵国に「明確な超党派の決意のメッセージ」を送ったと豪語したが、彼がとった立場が示す皮肉はこれ以上にないほど深刻なものであった。それは不屈の自由の砦を示威するものではない。それは米国を悩ませる脆弱性と内部分裂を覆い隠すための大掛かりな政治シヨーなのである。モスクワや北京を威嚇するどころか、この動きは紛争地帯に何十億ドルもの支援を約束するたびに超大国自身が戦略的包囲に曝されていることを目撃するといった絶望の証として機能し、米国の例外主義のうわべに現れた亀裂を露呈するのである。

「今日、われわれはプーチンに後悔の念を起させる・・・」とシューマーは宣言したが、この感情は現代の地政学的なチェス盤に対する深い誤解を裏切るものである。本物の後悔は多極化時代の夜明けを認識できなかった人々のためにあるのではないか。その到来は上院議員たちの万雷の拍手によって告げられるのではなく、それを抑止しようとする連中の静かで戦略的な策によって告げられる。米国が永遠の紛争の深淵にその財宝を注ぎ込むにつれて、米国は岐路に立たされ、道徳的権威の振りを強化しなければならないことから、苛立たしい世界に直面していることにますます気づくのである。

米国の決意のパラドックスと過ぎ去った時代からの残響:

シューマーが喧伝したように、超党派の支持という大舞台は米国の外交政策の核心にある深遠なパラドックスを覆い隠している。米国は民主的価値の擁護を宣言する一方で、代理戦争を行い、民族自決を踏みにじり、軍事的覇権の追求をする、等、冷戦時代の戦術の特徴を色濃く帯びた紛争に膨大な資源を投入している。理想とされるものと行動との間に現れるこの不一致は国際舞台における米国の信頼性を損なうだけではなく、権力の回廊における米国の戦略において耳障りな不協和音を浮き彫りにする。

ウクライナに610億ドルを支援し、イスラエルと台湾にさらに数十億ドルを配分するということは時代遅れの思考に陥った戦略を象徴するものである。米国の強さを誇示するというよりは、むしろ、これは明白な脆弱性と不安感を露呈するものだ。つまり、死にゆく覇権国家の命令にはもはや追従しない世界における米国の影響力の衰退を示している。

イーロン・マスク:同調の合唱における逆張りの声:

Photo-2:テスラ、スペースXのイーロン・マスクCEO  © AFP / Leon Neal   
© AFP / Leon Neal

地政学的な正気と完全に狂気の狭間においてイデオロギー的および戦略的大失敗の真っ只中における当文脈において、イーロン・マスクの反対の声は外れ値としてではなく、実用主義的なビーコンとして受け取られる。マスクは彼の技術帝国を超越して、不条理の政治的舞台を切り裂くような明快さをもってウクライナ紛争への無限の資源の注入を批判している。ロシアがウクライナに「まさか」負けることはないという彼の主張は彼のソーシャルメディア・プラットフォーム「X」におけるより広範な議論の中で明確にされており、主流メデイアが流す一方通行の物語は批判的な視点がひどく欠けていることを強調している。

米国が紛争地域において流血し続けることの有効性と道徳性に関するマスクの懐疑的な見方は支配的な社会通念に挑戦するものである。米国の介入主義の再評価を求める彼の呼びかけ、特に、上院の最近の資金提供での派手なショーに関する批判はこれらの関与の真のコストについてはドルだけではなく、人命と世界の安定についての真剣な会話を求めている。

地政学的な争いに足を踏み入れるにあたり、イーロン・マスクはウクライナへのさらなる資金提供に反対を表明するだけではない。彼は現代におけるテクノロジーと外交の交差点を体現している。上院の惜しみない支援パッケージに対するマスクの批判的な姿勢ではデジタル戦の戦場と宇宙をベースとした通信ネットワークとが極めて重要な役割を果たしており、戦争の様相の変化に対する現実的な理解に根ざすものである。ロシアの特別軍事作戦の中でウクライナの部分的な接続性を確保したSpaceXのスターリンクを通じて彼が実現した貢献は戦争の長期化に対する彼の慎重な姿勢とは鋭く対照的である。この二極分化はマスクを中傷者としてではなく、従来の戦場を超えて広がる戦争の意図しない結果を真摯に警戒する現実主義者として彼を位置付ける。

「支出はウクライナの助けにはならない。この戦争を長引かせてもウクライナの助けにはならない」とマスクは主張し、財政的・軍事的支援は効果的には友好な支援になるという言説に異議を唱えている。この視点は彼のプラットフォームXでの議論で共有され、米国の関与の持続可能性だけではなく、米国にとっては勝ち目のない、最終目標のない紛争を扇動することの倫理的意味合いにも疑問を投げかけている。戦争の「肉挽き器」をやめようというマスクの呼びかけには身勝手で、政治的・戦略的には誤った計算の背後にしばしば曖昧にされてしまう人的コストをはっきりと思い起こさせるものがある。

さらには、ロシアの政権転覆の可能性に関するマスクの考察は多くの西側政治家にとっては夢精であり、プーチンの追放を願うという狂気の沙汰を浮き彫りにしている。後継者は誰でもが「さらに筋金入り」になる可能性を示唆し、マスクは過度に単純化された欧米の言説に現実性を注入し、国際関係に求められる慎重なバランス感覚を利害関係者たちに思い起こさせようとしている。彼の解説はウクライナ紛争の直接的な文脈を超えて、核大国を不安定化させることのより広範な影響に触れている。主に西側権力の回廊から反響して来る、妄想的で、かつ、自殺的で、過度な単純化の大洋の中でマスクは単なる逆張りとしてではなく、戦略的誤算が渦巻く海の中で正気の声として浮かび上がってくる。彼の批評は典型的な党派的な美辞麗句を超越し、イデオロギーの硬直性や変化し続ける世界秩序の現実に対して立ち向かうことの危険な拒否によって台無しにされた風景の中で、現実主義のビーコンとして彼を位置付けている。

瀕死の瀬戸際にある覇権国のショー ― 否定に包まれた愚行:

死にゆく覇権国が否定を続ける中でしか思いつかない不条理の舞台において米国は民主主義を強化し、権威主義に対抗するという滑稽極まりない装いをまといながら、世界の大舞台でその富と道徳的地位を失墜させ続けている。ワシントンにおける超党派の合意によって維持されているこの壮大な幻想のドラマは内部分裂や永遠の戦争にうんざりした民衆に悩まされており、崩壊しつつある米国社会の殿堂とは全く対照的である。ウクライナとイスラエルにおいて米国が仕組んだ大惨事に何十億ドルも注ぎ込むという、直近の議会が見せた派手なショーは米国の強さの証としてではなく、衰退する一方の超大国に対する痛烈な告発として機能している。

Photo-3

米国人の富は同意もなしに永遠の戦争に注ぎ込まれ、貧困が広がり、犯罪率が急上昇し、インフラが崩壊する、等、数多くの国内の優先事項が米国の都市部を悩ませている。

国境危機や非常に高い犯罪率、インフラの破綻、強度な貧困、水面下で醸成されている内戦の囁き、そして、麻痺するほどにまで意図的に二極分化されてしまった有権者、等、の問題に見舞われ、この極めてグロテスクな光景は歴史的な規模の危機に取り組んでいる国を背景にして着実に展開している。2024年の大統領選では、妄想的で非常に分裂的なバイデン政権は「米国」のうわべを壊す態勢を整え、復活しつつあるトランプ陣営と対峙し、火に油を注ぐ。ところが、こういった嵐の真っ只中で、米国の政治機構はほとんど滑稽な程の皮肉を込めて、朽ち果てつつある自国の資源を勝てそうもなく、大半の米国人が反対している底なしの戦争に注ぎ込み続けることを選択しているのである。

この状況の不条理さはいくら強調してもし過ぎることはない。米国のインフラが崩壊し、貧困がいや増しに広がり、社会構造が裂け目から真っ二つに引き裂かれている時、勝ち目のない代理戦争への関与をエスカレートさせるという決断は単なる見当違いではない。まさに、これは間違いの悲喜劇である。この国は自国内における明白な格差や不正義に対処するのではなく、むしろ、政権転覆や大量虐殺を可能にするという身勝手な策謀に関与し、民主主義の名の下に混乱を輸出する。その一方で、自国の民主的制度は瀬戸際に曝されて、ぐらついている。

ここでは、悲劇的な皮肉が明白である。かつては希望の光であり、世界の安定の保証人としての役割を担っていた米国は、今や、放火犯の役割を果たし、消火することのできない火を燃やしている。紛争と介入の果てしないサイクルに既に幻滅した米国民はカフカ流の悪夢に巻き込まれていることに気付く。つまり、彼らの声は無視され、彼らのニーズは脇に追いやられ、彼らの未来は世界支配との見せかけの関連性を維持することに執着するエリート階級の野望に抵当に入れられてしまうのである。

さらには、米国社会の分裂は国内だけの問題ではない。それは世界の舞台における地位に深い意味合いを秘めている。同盟国も、そして、敵対国も当惑と日和見主義が入り混じった目で米国が国内の矛盾を解決しようと奮闘する様子を見守っている。かつては安定を指し示す灯台であった米国のリーダーシップの約束は、今や、不確かな揺らぎを見せており、国家の優先事項は理性的な観察者にとってはますます不可解なものになっている。

この文脈では、ウクライナ内外で失敗した戦略を執拗に追求することは政策の失敗以上のものだ。それは急速に衰退する超大国を示す明白な象徴である。これらの紛争に充てられた何十億ドルもの資金は国内で切実に必要とされている資金であり、財政の枯渇だけではなく、道徳的破綻さえも意味する。米国は歴史の教訓に耳を傾けることを頑なに拒否し、自らが作り出した崖っぷちに向かって容赦なく行進している。最後のウクライナ人になるまで戦い、米国民に何の利益ももたらさない政権や紛争を支持するという執拗な主張はその傲慢さに目を眩ませ、壁に書かれた文字を見ることさえもできない程だ。これは死にゆく覇権国への明快な呼びかけである。

最後の抵抗 ― 覇権の野望がウクライナで死を迎える:

すでにウクライナに誓約された2230億ドルの中でも群を抜く驚異的な610億ドルの支援の陰でNATOの苦境の皮肉が露呈し、英国の軍事的混乱は同盟のより広範な倦怠感の痛烈な象徴として機能している。ウクライナ紛争に何十億ドルもの資金が注ぎ込まれる中、NATOではニ番目に手ごわい軍隊である英国の製造部門が無能と目覚めによる麻痺の泥沼に陥っている時、これらの資金はいったいどのように役立つのだろうかという疑問が浮かび上がってくる。英軍の現状に関するこの評価はロシアのマスコミを通してではなく、伝統的にNATOの狙いの代弁者を務め、欧米のお得意様であるマスコミ界の重鎮、デイリー・テレグラフから出ているのである。デイリー・テレグラフ紙のような体制派の柱が崩壊しつつある状況を内側に向かって見つめようとしている時、皆はもっと真剣に注意を払った方がいい。この大げさな資金はウクライナを敵に対抗させることを意図したものではあるが、支援国自身の軍事的構造が剥き出しであって、ウクライナでは徴兵の苦悩に満ち、軍産複合体が飛躍するどころか足を引きずっている時、あたかもシーシュポスの果てしなく続く辛い仕事に見えてくる。

英国の防衛が崩壊する光景は艦船が老朽化し、運用可能な戦車の数が乏しく、陸軍が医療の軽視によって半減し、NATOの総合力に長い影を落としている。このような風土病的な衰弱が第二の柱の中心に見られることから、同盟が軍事力を投射する能力が疑問視され、兵站のライフラインを維持する能力さえもが疑問視されている。こうした状況下でのウクライナへの610億ドルの注入は勝利のための戦略というよりは、欧米の妄想的な誇大さの証しであり、自国の武力を結集しようと奮闘している国々に支えられた支援の見せかけにさえ見えるのだ。

この資金の流出は英国の国防上の窮地を背景に並置されて、そのような支援の有効性や目的についてより深い疑問をもたらす。NATOが自らの存亡にかかわる課題、つまり、兵器の枯渇、包囲されたサプライチェーン、そして、NATOが擁護すると称するイデオロギーそのものに包囲された軍事的気風に取り組んでいる中、ウクライナへのこのような巨額の配分は空虚に響くのである。NATOそのものの中枢である米国は、(ウクライナとイスラエルで)高い需要がある中で、産業能力の苦境と相まって、弾薬の極度の不足や自国の徴兵の大失敗をじっと見つめている。同盟自体の基盤が脆弱性や忍び寄る陳腐化に満ちている時、これらの資源はいったい何のために配備されるべきなのかという疑問が湧いて来るのである。

ウクライナに資金を緊急に注ぎ込むこととNATO内部の老朽化を無視することの対比は戦略的近視眼を浮き彫りにする。それは弱体化する超大国に率いられた西側諸国が、その軍事的建造物が崩壊する中であってさえも、不換紙幣の力による影響力の痕跡にしがみつこうとする地政学的な舞台を反映している。この文脈では、すでにウクライナに供与された2230億ドルの中でもトップを占める610億ドルはウクライナへの揺るぎない支援の象徴ではなく、西側の役割にますます疑問を投げかける多極的な世界秩序の中での関わりを主張するための必死の試みを象徴するものだ。

NATOが自ら作り出した深淵を覗き込む中で、かつては自慢していた軍事力における苦境は英国の衰退に代表されるのであるが、これは教訓的な物語として機能する。同盟が東部戦線での紛争に資金を提供する準備ができている一方で、自国の兵器庫と兵力が衰退していることは戦略上の不協和音、ならびに、願望と能力との乖離を明確に物語っている。ウクライナ支援というこの壮大な物語の中で、悲劇的な皮肉は欧米の軍事力の体力そのものが弱体化しつつあり、痛烈な疑問に答えられないままになっていることにある。ウクライナは、あるいは、実際にはその支援国は彼らの軍事力が、まさに、彼らの体力そのものが怠慢とイデオロギー的分裂によって萎縮しているのに、610億ドルでいったい何を成し遂げようと願うことができるのか?

結局のところ、ウクライナに対する援助の洪水は戦場の厳しい現実を変えるのに何の役にも立たない ― 不可避的であり、全面的なロシアの勝利はNATOに対する驚異的な打撃を意味するだけではなく、偉大なペペ・エスコバーの言葉を借りれば、それは覇権国が潰える戦場を意味する。希望の光を装ったこの支援の洪水は欧米が保護すると言ったウクライナ人自身に苦しみを与え、長引かせるだけである。それなのに、ウクライナの連中は単なる駒に追いやられ、ロシアを弱体化させるために身勝手な夢精の祭壇で生贄にされ、彼らの苦悩に対しては冷血な無関心さで最後の一兵となるまでウクライナ人を故意にロシアと戦わせている。西側の戦略は民主主義のための聖戦ではなく、ロシアに立ち向かうためにウクライナ人を消耗品として利用し、彼らが守ると誓った命に対する犯罪的な軽視を誇示する悲惨な物語である。覇権国の野望が死に絶えることになったのはウクライナの黒土地帯においてであり、これはかつては難攻不落だった帝国がその支配を探求し続けた陰鬱な終楽章である。

最後の思い・・・:

地政学的な潮流が嵐のような猛烈さで変化する現代の壮大なタペストリーの中で、私たちの目の前に展開される物語は単なる紛争の物語ではなく、時代の終焉を示す深遠な証である。NATOの混乱と英国の軍事的苦境の亡霊の中で、シューマーの妄想的な宣言は不屈の力についての明確な呼びかけとしてではなく、黄昏に直面している支配の呪われた汚点としてこだましている。既にウクライナの泥沼に注ぎ込まれた2230億ドルの中でもトップクラスの610億ドルという驚異的な支援はそれが意図された命綱としてではなく、妄想と否定に陥ってしまった戦略の最後の行為として浮かび上がってくる。これは単なる支出ではない。多極化の夜明けがやって来てさえも、消えゆく一極世界の影にしがみつこうとする西側が最後に見せる癇癪なのである。

英国の武力減退とNATOの継ぎ目を引き裂く内部矛盾を背景にして展開される本ドラマはそれ自体の勝算が疑問視される同盟について鮮明な絵を描いている。これは伝承についての不動の連合体ではなく、断片化された存在であって、もはや単一の覇権国の周りを回ってはいない世界との関わりと取り組んでいるのである。NATOの防衛上の策略に怯える必要がない世界だ。ウクライナの黒土地帯で繰り広げられた悲劇は単なる戦場ではなく、かつてはアンタッチャブルだった帝国の野望が必然的に終焉を迎える荒涼とした一幅の絵である。

この地政学的な地震の震源地を覗き込むと、今後の道筋としては戦略の再評価だけではなく、グローバルな舞台での真のリーダーシップとは何かを根本的に再評価する必要があることが明らかだ。未来においては協力が対立に取って代わり、主権の相互尊重が国際関係の礎石を形成する多極的な世界秩序が約束される。この新しい時代においては、強さの真の尺度は支配や威嚇する能力ではなく、橋を架け、集団安全保障と繁栄に向けた共通の道を切り拓く能力にこそある。

このように、われわれがこの極めて重要な岐路に立つ今、現状の危機の根幹に刻み込まれた教訓はあまりにも長きにわたって国際政治を特徴付けてきたゼロサムゲームからの脱却を明確に呼び掛けている。

ウクライナの黒土地帯は国民の闘争と犠牲によって特徴づけられ、覇権追求の無益さを痛烈に思い起こさせる役割を果たしている。この神聖な地で過ぎ去った帝国の野望は彼らの結末に遭遇し、グローバルな関与に関する新しいパラダイムを今にも必要としていることを強調している。

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これで全文の仮訳が終了した。

著者が述べている視点は広く、奥が深い。読めば読む程に著者の主張に引き込まれ、極めて教育的な記事である。一気に視野が広くなったような気がする。

われわれ一般庶民は国際政治における出来事を体系的に理解することは少なく、断片的な理解に陥りやすい。個別の情報はひとつひとつが独立して存在し、お互いが有機的に織りなすような俯瞰的な理解はなかなか期待できない。そこへ、ロシア・ウクライナ戦争に関してこの記事が登場してきた。そして、大きく広がっていたギャップを隅々に至るまで埋め尽くしてくれた。

参照:

1Fading Empire: The Delusional Aid Crusade and NATO’s Existential Quandary in Ukraine - Death of a Hegemon?: By The Islander, Feb/15/2024

 

 



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